不完全でもいいという優しさ
東京の地下鉄の長い長いエスカレーターに運ばれながら、反対側からくるすれ違う人たちの顔をボンヤリと眺めていた。そうしたらふと、「あの子」のことを思い出した。
日本の外で出会った「あの子」は、10代の頃からもうずっと海外に住んでいる。あまり自分のことを多く語らないあの子は、掴めそうで掴めない。完璧で、誰にも弱さを見せない強い子だ。
いつも周りの人間に価値を与えてくれるような褒め言葉を、人に贈る子だった。どんなときも自分のことより人のことを優先した。明るくて面白くて、まじめでやさしくて、その場にいるだけで自然と場が盛り上がる、愛される子だった。それでいてかなりの完璧主義で、せっかちで、いつも自分自身が成長していないと気が済まないような、そんなタイプだった。
面白いことが大好きで、好奇心旺盛のその子は、そうだな。ちいさな世界でジタバタして生きていたわたしを、ワクワクする世界にいつも連れ出してくれた。行動力があって、勇敢で、無邪気。
そんな、「完璧」なあの子は、ある日突然いなくなった。
誰からの連絡も返さず、既読にもせず、約束した待ち合わせ場所にもとうとう現れなかった。
最初の1週間は、気にしなかった。そういう時、たまにあるよね、なんて言って。
2週間、3週間が経った頃、「おかしいな」と、親しかった友達の間で心配しだした。心配が止まらなくて、何度も電話をかけては、鳴り続けるコールをずっとずっとドキドキしながら聞いていた。
次の日に「心配かけてごめん、生きてるよ」とだけ来た返信にホッとしながらも、なんだか今はそっとしておこうと直感で思った。
しばらく、連絡は取らなかった。
*
明るい人ほど、人への気配りとか周りのことをいつも考えているものだと思う。明るい人ほど、本当はひとりでいる時間が大切で、ずうっと誰かといると、みんなに愛を渡そうとして苦しむんだろう。
「完璧」という言葉を使ったのは、ちょっと語弊があるかもしれない。誰からも好かれる、明るくて社交的で仕事ができる人間を「完璧」と呼んでしまうのは、なんだか冷たい世界だな。それは、世界が勝手につくった「完璧」な人間を振る舞おうとしてしまう、負けず嫌いで頑張り屋な人を、苦しめるときがある。
良い大学へ行き、大企業のブランドを背負うのがいわゆる「エリート」とされ、情報が溢れみんなが流行を追いかけ、他人の目が宗教であるような世界で。
思い出したのは、ベトナムのことだ。周りの目を全く気にしない、自分の幸せがいちばんなベトナムという国で、そこの人々と過ごす時間はとてつもなく心地よかった。みんな自分以外のことはあまり気にしていないから、飾る必要もなくて、自然体だった。
心地よく生きれる場所なんて、探せばいっぱいある。
自分の好きなものだけを愛し、自分の幸せをいちばんに考える社会が「完璧」な、器用な人間を助けるのかもな。
「なにが好き?なにをしているときに、幸せを感じる?」
日常に追われて、そんな質問に答えられず、ただ世界の「完璧」を追いかけ、演じ続ける、そんな世界じゃつまらないじゃないか。
音楽もアートも映画も本もブランドも、TwitterもInstagramも、人の本音が表現されたものがいちばん面白いよなぁ、飾ってるものはつまらないよなぁ、なんて。
「完璧」を、追いかける話を、そんな話を真夜中に、久しぶりに東京で再開した友達としていた。
(貼ったのがバレたら、きっと彼女は怒るかもしれないな)
世界って案外やさしい。完璧じゃなくても、いいんだった。不完全でも、別にいいんだよ。
「あの子」はもう、知っているかな。
*
数日前、あの子からとうとう連絡がかえってきた。
「人生の夏休み終わり!今日から完全復活!」
あの子は、日本に帰ってきたようだけど、またどこかの国に行くのかもしれないな、なんて思った。
奥多摩に行きました、わたしは元気です。