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わたしは好きな人の100を知らない
「君はかなり外向的な人間で、僕はかなり内向的な人間だ」。今は海の向こうにいるその人がわたしに、そう言った。
「内向的な人間はただ、自分の信念に向かい、ただ自分を知り、目標を達成することだけに時間をつかうんだよ。」
そう自信満々に言う内向的な彼に、「外向的」と言われる自分がただ、空っぽだと言われているような気がした。
わたしがベトナムに住んでいた頃その人は、ひとりで本を読むのが好きだと言うわたしに、(だからわたしは自分を外向的だとはあまり思わない)会うたびに本のプレゼントをくれた。
新しいもの好きだというわたしを、いつも同じカフェとクラフトビールのお店に連れて行っては「僕は自分の好きなものだけに忠実だ」と自信ありげに話した。高級なお店は苦手だ、路上のお店が好きだと言うわたしを夜景が見える綺麗なレストランに連れて行った。
人の世界に入り込むのが好きなわたしは、これはこれで楽しいと、満足していた。
違う部分があっても、素朴に家の中をスケボーしたり、ふたりで好きなDimsumを見つけて毎朝食べに行ったり、店員さんを巻き込んでふざけたり、夜は音楽を聴いてまったり過ごしたり。共通項の好きはたくさんある、と思っている(いた)。
「君と僕は正反対だ」と言いながら、「僕は誰にでも好かれる君に憧れる」と言い、わたしはそんな自分よりも、自分の大切なものと、自分自身を深く知っている彼を羨ましがった。
人は、自分が持っていないものに惹かれると言うけれど。
それが故に理解できないことがたくさん、たくさんある。他人のすべてを理解できることがあるなんて、思ったことがないし、全てを理解してもらおうとわがままを言ったこともない。ひとつ理解できないとしても、そのほかの部分で理解しあうことができたら、それでいい。
だからこの前、「君は僕を、どれほど知っている?」と聞かれたときに「全部は、知らない」とわたしは答えた。「僕は君を、君が僕を知っているよりも知っているよ」と彼は言った。「それは表面の世界でしょ?」と喉から出かけた言葉をおさえた。そういえば、ふと思い出した。出会ったときに、彼が言っていたことを。
「ホーチミンとハノイの女性は違う。ハノイの女性はすぐに男性を好きになる。ホーチミンの女性は、男性を知るのに時間がかかる。ハノイの女性は僕の肩書きや収入だけを見て、出会ってすぐに親を紹介しようとしたり、僕の中身を知らないのに、3日たったら僕のことを好きだと言う。うんざりだ。」
*
確かに自分を深く理解してくれていない人から好意を持たれても、あまり良い気をしない気持ちは少しわかる。でも一方で、“ほんとうの”その人を知ることは、かなり難しい。時間をかけても知り得ないことだって、たくさん、たくさんある。
わたしは、いっそ“ほんとうの”なんて知らなくてもいいと思っている。その人が自分に見せてくれるものだけを、別にそれが偽りだとしても、それをただ「その人」として見たい。それこそがその人が自分に見せたい一面であって、自分はそれをそのまま受け取るべきだと、思っている。見せてくれているものは受け取りたいという気持ちはあるけれど、それ以上を求めたりはしたくない。
ある人からは「なんか冷めているよね」と言われることもあれば、別のある人からは「情熱的で人間想いだ」と言われることもある。
気難しい人と分かり合えなくて、心を整理したくなった、日曜日の午後なのでした。理解し合うって、ムズカシイ。
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