【しをよむ063】黒田三郎「紙風船」——願いごとは独りでするもの。

一週間に一編、詩を読んで感想など書いてみようと思います。

黒田三郎「紙風船」

石原千秋監修、新潮文庫編集部編
『新潮ことばの扉 教科書で出会った名詩一〇〇』より)

そっと息を吹きこんで、手のひらで打ち上げる。
ぽうん、ぱしゅ、ぱしゃん。
しぼんでしまったらもう一度ふくらませて。

小さく、薄く、弾まなくて儚いものだから、
床に座って、ひとりきりで紙風船をつく。

それでもだんだんとくたびれてしまって、
しぼんではふくらませてきた軌跡がしわになって
ついには息に耐えきれずに白く裂けてしまう。

この詩「紙風船」を読んで、紙風船の色鮮やかさと手ざわりがよみがえりました。

何度も何度も打ち上げられる紙風船は、詩の最後に
「美しい
 願いごとのように」
となぞらえられます。

「願いごと」は自分の力だけでは叶えるのが難しいからこそ「目標」ではなく「願いごと」になるのですね。
自分以外の力を頼る以上、それはどれだけ強い思いでもどれだけ自分ががんばったとしても叶う保証はなくて。
何度も甲斐なく落ちてしまうかもしれないし、願い続けることに疲れ果ててしまうかもしれません。

それでも、幼いなりに紙風船の儚さを理解して、破れるまでのひとときは紙風船と真剣に向き合うように、
祈る人や願う人も、叶えられなかった「願いごと」を夢破れるまで打ち上げつづける。

もしかすると「願いごと」は他者の力がはたらくことが前提ですから、
突きつめて考えると独りで行うほかない行為なのかもしれません。
一人一人が願った内容が似通うことはあっても、
みんなで呼びかけて同じことを願うのはすなわち
「その願いを実現できる人は、ここには誰もいない」ということですから。
ただ、そのどうにもならない願いごとをどうにかしてくれる存在として
「生まれた」のが神様(あるいはそれに似た概念)なのかな、と思います。
なかでも、物質的な豊かさは万人に得られるものではありませんから、
——万人が得られたらそれは「豊かさ」ではなく「最低ライン」です——
精神的な豊かさを叶える存在として。

紙風船は打ち上げても打ち上げても天に届かず、最後には必ず破れてしまうように、
願いごとも最後には白く褪せて消えてしまって、最後に残るのは願った行為それ自体の純粋な思い出だけ、になるのかも。

お読みいただき、ありがとうございました。
来週は石垣りん「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」を読みます。

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