【しをよむ062】吉野弘「I was born」——全人類はけっこうぼんやりしているのかも。

一週間に一編、詩を読んで感想など書いてみようと思います。

吉野弘「I was born」

石原千秋監修、新潮文庫編集部編
『新潮ことばの扉 教科書で出会った名詩一〇〇』より)

「産む」「産まれる」。
"bear", "born".
ふと考えてみれば、確かに「産まれる」とは受動形ですね。
自分がこの世に存在している事を自覚したのはいつのことだったでしょうか。
私はうんとさかのぼって、3歳ごろの記憶が断片的に思い出せるばかりです。

それから、妹が産まれたときの思い出。
入院していた母が、小さくてふにゃふにゃで、真っ白なガーゼにくるまれた赤ちゃんを抱いて帰ってきたこと。
なんだかくちゃっとして顔も平べったくて、くちびるをとがらせて寝ているだけだった妹が、
だんだん目を合わせたり声に反応したりするようになって、
「ふにゃふにゃのいきもの」から「赤ちゃん」、「子ども」へと育っていく姿。

私と両親は、妹自身よりも先に妹の存在を認識して、妹と妹の名前とを結びつけて、
妹が、自分は「あきらちゃん」ではなくて「○○ちゃん」なんだと区別できるようになるまでの数年間、
妹を「○○ちゃん」にするための枠になっていたのですね。

私も妹も、おそらく他の人々も、気がついたときにはすでに名前を持ってこの世界のとある時のとある場所に置かれていたようなものなのでしょう。
そういえば前々回の鮎川信夫「死んだ男」を読んだときにも、似たようなことを考えていましたね。
これまで地球上に生まれてきた全人類が「気がついた時にはこの世に存在していて、しかもけっこう時間が経ってる」状態であるのは、
考えてみるとなかなかにすごいです。

受動的にこの世に産まれて、物心つくまでは自分のことを認識できないのならば、
デカルトの「我思う、故に我あり」の考え方でいくと
生後数年までの「我」の存在はなんて不確かなのでしょう。
成長して「思考する主体」として自分自身を捉えられるようになったとしても、
不確かな存在が100%確かな存在になることはできるのか。
仮になれるとしたら、それは、ゆっくりとあいまいに育っていく認知能力のどの時点からなのか……。

この詩でもうひとつ印象的なのは、身籠ることの女性性です。
見知らぬ妊婦の白さ、蜉蝣の細さ。
臨月には高さ50cm、重さ3kgくらいにもなる命を身に抱えるには、
直観だと筋肉や骨格のしっかりした男性のほうが向いているようにも思えます。

けれども日毎に成長してうごめく胎児を自分自身の臓腑と共存させて
最終的に産み落とすためには、伸ばしたり曲げたりしやすい女性の体のほうが
結局は向いているのかな、とも。

もちろん私たちは蜉蝣ではないので、生の目的は子孫を残すためだけではありません。
ただ、自分の子を為すにせよ為さないにせよ、
全ての大人や子供が "I was born" という受動的な存在である以上、
思いがけずやってきたこの世界で幸せに暮らせるといいな、と思います。

もしかしたら、他人に苛立たされることがあっても
「ああ、この人も自覚なしにこの世界に産まれさせられた、"I was born" な存在だからな……」と考えると、
ちょっと気が楽になるのかもしれません。

お読みいただき、ありがとうございました。
来週は黒田三郎「紙風船」を読みます。

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