【しをよむ066】田村隆一「帰途」——言葉でなくてはならなかった。
一週間に一編、詩を読んで感想など書いてみようと思います。
田村隆一「帰途」
石原千秋監修、新潮文庫編集部編
『新潮ことばの扉 教科書で出会った名詩一〇〇』より)
とてつもなく挑戦的な作品です。
何しろ第一連が
言葉なんかおぼえるんじゃなかつた
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかつたか
と、言葉によって言葉を否定しています。
なんだかもう、この詩についてはただ全文を載せて終わりにしてしまいたいほどで、
後天的に獲得したはずの「言語」をまるで本能的な五感のように感じて(見つめて、耳を澄ませて、嗅ぎ取って、味わって、撫でて)しまおうとする自分自身の
不安定さをぐさりと抉り取ってきていて、
でもだからこそ私はこの詩が、とても好きです。
言葉が言葉にならない記憶、言葉の無意味さを突き付けられる記憶。
獲物を呑みこむ蛇。捌かれて「動物」から「肉」になっていく獣や魚。
グロテスクでありながら目を離せないものたち。
第二連では、おそらくは発信者である「ぼく」と、受信者である「あなた」「きみ」が描かれています。
これも言葉の制御不可能性がありありと出ていて、爽快なまでに書き手(この詩の作者ではなく、「言葉」を発するすべての人々)を突き放しています。
あらゆる表現物は受信者の解釈を求めるものではありますが、
「言葉」はとりわけ抽象度が高くて、受信者が頭の中で意味を組み立ててくれないと成立しません。
いかにこちらの意図通りに意味を組み立ててもらうかを突き詰めるのが、おそらくは発信者の技量であり、
時々こちらが意図した以上のことを組み上げていただけるのがすごく面白いところでもあるのですが。
心の中のざわめきやモヤモヤは言葉にすることで軽くなったり整理できたりもします。
それは夢の中の出来事を書き留めるような、限りないものを言葉で定義可能なところだけすくいとって並べていくような行為で、
脳内のものを文字や声に移すぶん気持ちは軽くなりますが、こぼれ落ちたものをすくおうとすればするほど、同じ痛みに立ち返ってきてしまいます。
この詩を読んでふと思い出したのですが、
私は自分の肉声を「聞いてもらえないもの」と感じているからこそ
作品を書き続けているのかもしれないと考えたことがあります。
生身の日常に近いTwitterも「稲見晶」という作品の一部です。
剥き出しでは届かないものを言葉として創って飾って、見つけてもらう。
私が物語に潜るとき、私の肉声はありません。
けれども時々、私が書いた作品の中から、私自身にも聞こえていなかった肉声を受け取ってくださる方がいらっしゃいます。
その度にびっくりして、面白くて、私はこのややこしい「言葉」による表現にもう一回、もう一回、もっと深く、もっと深くと潜っていくのかもしれません。
お読みいただき、ありがとうございました。
来週は高見順「われは草なり」を読みます。
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