【しをよむ050】宮沢賢治「永訣の朝」——体温は熱いものだと思い出した。
一週間に一編、詩を読んで感想など書いてみようと思います。
宮沢賢治「永訣の朝」
石原千秋監修、新潮文庫編集部編
『新潮ことばの扉 教科書で出会った名詩一〇〇』より)
青空文庫での公開もされています。
宮沢賢治「春と修羅」収録
何度読み返しても、読み終えるたびに打たれてしばらく放心してしまう作品です。
ひたむきに生きてひたむきに死んでいく純粋さと悲しさ。
おもての寒さ、みぞれの冷たさに対する「わたくし」の身内の熱さは生きていることを、「とし子」の火照りは死んでいくことを、強烈に印象付けます。
きっと冷蔵庫もない時代のこと、熱に浮かされる体が冷たいものを求めるとき、手に入るのはみぞれや雪だったのでしょう。
弱っている体では水も飲み込みにくく、氷は固くて痛いから。やわらかな雪を口に含んで熱をやわらげる。
「とし子」の無意識が求めたものに、「わたくし」がやさしく鮮烈な意味づけを与える。これから先の人生で、雪やみぞれが降る長い長い季節のあいだ、「わたくし」はこの朝のことを思いだす。
おなじく宮沢賢治「春と修羅」の序からも言葉を引くと、
「仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明」である「わたくし」と
「やさしくあをじろく燃えているわたくしのけなげないもうと」とのあいだに
散った、激しい火花の不可思議を見た思いです。
「わたくし」が松のえだからみぞれをもらっていったところが、なんだか胸に迫ります。
松の、体のなかの空気を清めるような香りがみぞれに移り、さいごのたべものはいっそう涼やかに聖かったことでしょう。
繰り返される言葉「あめゆじゆとてちてけんじや」は、まるで神託のようで、
真っ白な景色に独り立つ「わたくし」の胸にだんだんと大きく響きます。
「とし子」の語る東北弁はなぜだか声に出すとイントネーションや意味合いが自然になじんでくるように思えます。
括弧でくくられた「とし子」の方言と、地の文で綴る「わたくし」の標準語が、
二人の隔たりを強調します。
雨や雪がやがてはまた天へ昇り、ふたたび降り注ぐように、
天へと還った命や祈りがあかるい粒子となってこの世界に遍く溶け込んでいる、
降りしきる雪とともにそんなイメージが想起されてなりません。
お読みいただき、ありがとうございました。
来週は萩原朔太郎「旅上」を読みます。