【しをよむ072】山村暮鳥「風景 純銀もざいく」——視界の端にはひるのつき。
一週間に一編、詩を読んで感想など書いてみようと思います。
山村暮鳥「風景 純銀もざいく」
石原千秋監修、新潮文庫編集部編
『新潮ことばの扉 教科書で出会った名詩一〇〇』より)
青空文庫での公開もされています。
山村暮鳥「風景 純銀もざいく」収録
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
——
題名に心当たりがなくても、見れば「ああ、あれ!」とわかる詩。
この作品はどちらかというと「読む」よりも「見る」詩だと感じます。
ひらがな9文字。
背丈のそろった、緑と黄色。空も柔らかにいちめんの青。
「かすかなるむぎぶえ」や「ひばりのおしゃべり」が耳に届いても
視界はなのはなでいっぱいのままです。
むぎぶえを吹く人も、近くにいるはずのひばりも見えなくて、
まるで楽園のようなのどかさ。
きっと陽もぽかぽかとしていることでしょう。
そんな景色の中で一点だけひっかかるのが、
「やめるはひるのつき」です。
これはやはり「病めるは昼の月」なのでしょうか。
私の想像では、この月は半月よりも少しだけふくらんでいます。
茎や葉の緑色、花の黄色、空の青色。
その三層に薄いしみのようにぽつんとある、白い月。
最後に一度だけつぶやかれる「いちめんのなのはな」は
心なしか、完璧さが損なわれたことへのやるせなさが感じられます。
「いちめんのなのはな」に差し込まれる描写の中で、この「やめるはひるのつき」だけ視覚情報なんですよね。
そのほかのものがシンプルにゆるぎなく構成されているだけに、
あいまいな形をした月はどうしても意識を刺激します。
けれども「いちめんのなのはな」は、おぼろな白い月や今感じている違和感さえも飲みこんで世界の果ての果てまで続いていくようでもあります。
もしかしたら、ほんとうに全てはなのはなになってしまって、
自分は世界にたったひとりの人間なのかもしれない……。
穏やかな春の情景に、そんな子供のような心細さをひとしずく。
1~2週間も経てばこのなのはな畑は盛りを過ぎて、今見えている景色は「どこにもない景色」に変わってしまいます。
現実のはずなのに幻想。聞こえるのに見えない。果てしないのに綻びがある。
そんな調和の中のアンバランスがじんわり滲むようでした。
お読みいただき、ありがとうございました。
来週はコクトー(堀口大學 訳)「シャボン玉」を読みます。
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