【しをよむ057】高村光太郎「ぼろぼろな駝鳥」——駝鳥とトカゲと植物と。

一週間に一編、詩を読んで感想など書いてみようと思います。

高村光太郎「ぼろぼろな駝鳥」

石原千秋監修、新潮文庫編集部編
『新潮ことばの扉 教科書で出会った名詩一〇〇』より)

青空文庫での公開もされています。
高村光太郎『ぼろぼろな駝鳥』

行楽地でありながらもどこか圧迫感を感じる場所、動物園。
動物たちの目と相対し、充満する鳥や獣の鳴き声を聞き、生きたもののにおいを感じるところです。

中原中也の『また来ん春……』も、根底に深い悲しみが流れる、動物園の思い出を描いた詩です。

大きな動物、小さな動物、角があるもの、牙があるもの、毒があるもの、etc...
さまざまに進化してきた動物たちの姿をいちどきに見られるのが動物園ですが、
そこにいる彼らのほとんどは、日本で生きるための進化はしていないのですよね。

ここに描かれている駝鳥ももちろん。
海に囲まれて起伏のある日本では、首の長さは見晴らす助けにはなりませんし、平野を走るための脚も使いどころがありません。
日本の、街中の、動物園の、制限された柵の中では、駝鳥はなんだかとてもアンバランスで滑稽にさえ見えます。
サバンナだったら存分に駆けることができるだろうに……と考えてみても、
「ぼろぼろな駝鳥」を目の前にしてはその姿を思い浮かべるのも困難です。

動物園に限らず、家畜化されていない動物の飼育は人間のエゴにぶつかります。
私は爬虫類が好きで、飼い主さんやブリーダーさんのTwitter をよく見ているのですが、その方達の責任感の強さには頭が下がります。
飼いならせない、懐かない、適した環境が人間のそれと全く違う、野生下より長く生かすのが難しい……、という条件で、
それでも「自分が飼いたいから飼っている」という意識が染み渡っているようなのです。

それとはまた近いような遠いような話ですが、私が爬虫類、特にヘビやトカゲを好きなのは、感情がわからない程度に人間とは異なっていて、擬人化できる程度に人間と近いからかもしれません。
離れてついているつぶらな目は幼い印象を与えて、大きな口はなんだか笑っているように見えます。トカゲはだいたい手足が短いのも幼さを連想させますね。
動きも考えがあるようなないような感じで、じっとしていたりぱたぱたしていたり。
たまにキリッとした顔つきのトカゲやヘビもいますが、動くとやっぱりぱたぱたします。
なんとなくですが、本来のすみかである熱帯雨林あたりでも、同じようなことをしているんじゃないかな……と思っています。

私がいつかトカゲを飼いたいがために、あのぽやんとした顔を都合よく解釈してしまいました。

ここでふと思い出したのが三浦しをんの小説『愛なき世界』です。
植物を研究するヒロインが「植物を人間のように考えないこと」と自戒する場面があって、植物と人間とが同じ座標軸を持つ別世界に生きていることにハッと気づかされました。
人間は人間同士のコミュニケーションを大切にするように進化したがために、
他の生き物までをも「人間」を解釈する眼差しで見てしまうようになったのかもしれません。

『ぼろぼろな駝鳥』から約70年が経って、動物園は動物をそれぞれの動物として理解する、生態展示や行動展示の場に変わってきているようです。
今の動物園の駝鳥がどう見えるのか、この詩を通じて、高村光太郎の目を私の内面にインストールできていますように。

お読みいただき、ありがとうございました。
来週は丸山薫「未来へ」を読みます。

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