【しをよむ068】吉原幸子「発車」——踏み出せない「私」を受け入れる詩。
一週間に一編、詩を読んで感想など書いてみようと思います。
吉原幸子「発車」
石原千秋監修、新潮文庫編集部編
『新潮ことばの扉 教科書で出会った名詩一〇〇』より)
電車に抱くイメージは、地域によってガラリと異なるように思います。
都会の、十両以上に連なってそのどれにも人がぎゅうぎゅうになっている通勤電車。
地方の、一両か二両くらいでゴトンゴトン走り、まばらな数組の乗客がおしゃべりをしている電車。
隅々にまで意匠を凝らした、それだけで旅情を掻き立ててくれる観光列車。
この詩の、心の中で発車ベルを鳴らし続けている電車は、
たとえば東京の街中を走って、それからさらに先へ抜けて、
行こうと思えば九十九里浜とか鎌倉とか伊豆とか、そういった海辺の町へもたどり着くものののように感じます。
関東の地理と路線にはいまだに詳しくないので、たとえば〇〇線のような、と例をあげることはできないのですが……。
でもいつもは通勤のため、あるいは週末のお出かけのために
長い道のりのうちのほんの数駅、立ち並ぶ日常の屋根屋根から離れられない範囲で使うだけの。
行先表示や「〇〇行き」のアナウンスを聞いて、
「ああ、ずっと乗っていたら海に出るんだな……」とぼんやり思いながらも
なかなか実行には移せない、そんな使われ方をしている電車なのだと思います。
たとえば日々の生活に飽いたとき、日常の境界を越えるきっかけは実は至るところにあって、けれどもそれを掴みきれない、踏み出しきれない、そうしたモヤモヤがこの詩の最終行
「ただ あのベルがなりやんだら——」
に凝縮されています。
電車や駅の空間的な狭さ、見知らぬ人との距離の近さ、アナウンスや発車ベルや運転音のざわざわした感じも、絶妙にこの詩の閉塞感とマッチしています。
ここで思い出したのですが、谷山浩子の歌「骨の駅」や「かおのえき」も駅という場所の特殊性が詩や音にいっぱいに表されています。
電車に乗っているときに聴くと不安になるくらいに。
それから伊坂幸太郎の「グラスホッパー」の回送列車の描写もとても不穏で印象的です。
あるがままの日常に倦んでしまったら、不機嫌な自分に気がついたら、
広い空と海のある場所へ踏み出すこともできる。
とはいえ、なかなかそうもできませんよね、と、
一人称で描くことによって押し付けがましくなく、こちらを責めるでもなく、
ただ寄り添って示してくれる作品だと思いました。
お読みいただき、ありがとうございました。
来週は茨木のり子「自分の感受性くらい」を読みます。