【しをよむ060】鮎川信夫「死んだ男」——ぼくはきみであって、生きていて、死んでいる。

一週間に一編、詩を読んで感想など書いてみようと思います。

鮎川信夫「死んだ男」

石原千秋監修、新潮文庫編集部編
『新潮ことばの扉 教科書で出会った名詩一〇〇』より)

この詩の印象を一言で表すならば「倦んでいる」でしょうか。
自分の体や感覚が他人事のように感じられて、
知らないうちに拵えていた傷に不思議と痛みはなく、
皮膚に盛り上がってやがて堪えきれずに筋を描く血を眺めているような。

心身のまわりを靄をはらんだ薄殻が何層にも取り囲んで
自分自身でさえも触れられないような。

不思議、で、わからない。
だからこそ目を凝らして淵を覗き込んで、
輪郭のはっきりしたもの——痛み——へと手を伸ばして、
それもいずれは薄れてしまうから、身を乗り出して、身を乗り出して——

死にそこなった「ぼく」、死んだ「M」。

「実際は、影も、形もない?」
「さよなら、太陽も海も信ずるに足りない」
これらの台詞を見るに、死に限りなく近づいた「ぼく」が悟ったのは
「『死』はただ靄のより深みにあるだけのもので、手を伸ばした先に確固たる境界や輪郭などない」ということなのではないでしょうか。

この詩の中では「ぼく」と「M(きみ)」、そして「生」と「死」は
入れ替えても何の問題も生じません。
たとえば死にそこなったのが「M」だったとしても、
二人とも生きて、または死んでいたとしても。

最終行に投げかけられる
「きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか。」は
すなわち「ぼく」の傷でもあり。

ここで改めて読むと、入れ替えを示すモチーフがそこかしこに見つかります。
「手紙の封筒を裏返す」——差出人と宛名を裏返す。
「活字の置き換え」——「ぼく」と「きみ」を。あるいは「生」と「死」を。
「神様ごっこ」——命あるものを命なきものに。あるいは命なきものを命あるものに。

「ぼく」が「きみ」であったとしても、
「きみ」が「ぼく」であったとしても、
「言葉もなく
 立会う者もなかった」
という埋葬の様子はなにひとつ変わりません。

一般に、自分や身近な人の死は、自分の心身を根本から揺るがせる大事です。
その一方で、どれほどすごい人(ざっくりした言い方ですが)であっても
いつかは死んでしまって、それでも地球の自転と公転のリズムは変わらなくて、
社会も回り続けて、時が経てばきっとなにかしらの発展があって。

考えると途方もなさにため息をつくしかできなくなってしまいます。
これまでに生まれて死んでいった無数の人々と同じように、
私は別の時代や場所のだれかと置き換えられても差し支えなくて、
けれどもたまたま、この世界の数十年分を、「私」という人格を持って存在しているのだな、と、そんなことをぼんやりと思うばかりです。

お読みいただき、ありがとうございました。
来週は長瀬清子「松」を読みます。

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