【しをよむ059】石原吉郎「麦」——稲の信仰、麦の象徴、猫自慢少々。

一週間に一編、詩を読んで感想など書いてみようと思います。

石原吉郎「麦」

石原千秋監修、新潮文庫編集部編
『新潮ことばの扉 教科書で出会った名詩一〇〇』より)

「一粒の麦が地に落ちて死ななければただ一粒のままのこる
 しかし死ねばゆたかに実をむすぶ」
『ヨハネによる福音書』からこんな一節を思いだしていました。
合唱をやっていると聖歌に触れる機会も多く、歌ったり聴いたりした一節は深く残るようです。

さっそくの余談ですが、合唱仲間の結婚式が続くと、賛美歌第312番「いつくしみ深き」と中島みゆきの「糸」が上達していくのが感じられます。
歌い手としても聴き手としても。

さて、この詩の「麦」は、細い茎に人の祈りをいっぱいに実らせた、ずしりと居住まいを正している麦です。
「実るほど頭を垂れる」とたとえられる稲に対して、
麦はこれまでの時間と人の想いとを抱えて誇らしげに立っています。

この詩を読んだとき、なんとなく「稲ではなくて麦であることの意味はなんだろう」と感じました。
きっと作者にとっては麦畑よりも水田のほうが馴染み深いのではないか……と。

さらに考えてみて、どうやら私自身も、稲作と麦作に異なるイメージを抱いていることに気付きました。
これまで触れてきたものたちの影響だとは思うのですが、
「稲作」は夏晴れの下のみずみずしい青田の光景、
「麦作」は夕暮れ時に金色に染まる収穫の光景。
もちろん秋の稲穂も、夏の若い麦も知ってはいるのですが、真っ先に浮かぶのは上に書いたふたつです。

もっと言えば、稲は育てる過程それ自体に喜びがあって、
麦は忍耐の末に得られる実りに喜びがあるような。
麦ふみも強く影響している気がします。

私の中のイメージをこつこつと紐解いていくと、
モチーフとしても稲と麦では使われ方が違っているようです。
稲はそのものが信仰の対象で、だから稲を育てることは神様を育てるにも等しいこと。
「お米一粒に七人の神様が宿っている」って、今の子も言われているのでしょうか。
麦は収穫の後に粉にして焼かれ、聖別を受け、聖体としてキリストを象徴します。
行事食を見ても、日本だと割と「餅! 大きい餅! いっぱいの餅!」と米本体がのしっと出てくるのに対して、ヨーロッパは「何かを象った」クッキー(スペキュラス)やパンが多いような。

長々ときてようやく詩に立ち返ります。
私が抱いているのと同じイメージで石原吉郎が「麦」を書いていたとすると、
この作品の中で麦が象徴しているものは
「すべて過酷な日のためのその証」「炎」「勇気」「決意」「祈り」。
細い根の先から穂先の毛の一本一本に至るまで充実して天を見上げる、精神の力強さ。
細くて弱いけれど、耐える力をもったもの。

10文字前後でそろえられた書き方も、背丈の並んだ穂のようで、
一行一行じっくりと読ませる効果を感じさせます。
大地を踏み締めるように味わえば、いつの間にか落ち着きを与えてくれる、そんな詩でした。

難しい話が続いたので、最後に実家の愛猫の写真を貼っておきますね。
名前は稲見むぎたろうです。

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お読みいただき、ありがとうございました。
来週は鮎川信夫「死んだ男」を読みます。

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