新刊『曖昧だけど』のはじめにを公開します。
『曖昧だけど』
中村 圭之介 著
はじめに
母が亡くなった。二〇二三年一一月一五日。午後一二時五七分だったそうだ。僕が独演会を終えた一週間後の出来事だった。独演会を必ず成功させたい！ 芸人を引退して以降、いや、芸人時代を含めても、一番情熱を注いだイベントだったように思う。結果的に、会場の方から「今年一番の来場者数でした！」と言われ、自分の中でも大きな感動の瞬間を迎えられたような気がした。その情熱の源は、色々あるけれど、「独演会を母に観て欲しい」という願いが原動力の一つであったに違いない。そんな願いが込められている独演会を母が観たら、母の癌が消えて、また元気になるのではないかと、結構本気で思っていた。大丈夫だと思っていた癌が、思いとは裏腹に進行してしまい、「もしかしたらもう……」と思わざるを得ない状況になっていたが、奇跡を起こす力がこの独演会にはある。そう思っていた。
「芸人になったら、親の死に目には会えない」
芸人になりたての頃、ある師匠クラスの芸人さんが、お母様が亡くなる瞬間も、舞台で漫才をしていたという逸話を聞いた。それは、「芸人とはこうあるべき」、「それが、芸人という仕事である」という教訓として語られ、もしかしたら俺芸人無理かも……と、芸人になって最初の絶望だったかもしれない。
芸人を引退した理由はそれではないけれど、それぐらい母の事を大切に思っていた。そんな母が亡くなった。
母の死を受けて、自分の無力さを痛感する。母を救う事は出来なかったのだろうか。もっと出来る事はあったはずだ。
僕にはお金が無かった。これが自分の無力を示す大きな要因だ。お金は無い……、無いけども、母を元気にしたい、平穏な生活を送って欲しい、笑っていて欲しい、笑うって癌に効果的だと聞いた事がある。
僕に出来る事はそれしかないと思っていた。
自分の無力具合を考える上で、どうしてもある一人の人物が思い浮かぶ。
「治療にお金が掛かる！」
「○○さんも癌で亡くなったみたい」
「会っておきたい人はおらんか？」
「(もう行けなくなる前に)旅行に行こう！」
彼は、闘病中の母に、それはそれはストレートにこのような言葉をぶつけた。彼の中では言葉を届けているかもしれないが、僕にとってはぶつけているように感じた。まるで母が死ぬことはもう決定しているみたいになるじゃないか。いやまぁ、「人は必ず死ぬ」という絶対的な事はあるけれど、闘病の場面で使うには相応しくない気がして、僕と姉は、彼にこれらの言葉を使って欲しくないと思っていた。
母と長年連れ添った彼は、母の病状が悪化している事が耐えられなかったのかもしれない。その気持ちは凄く分かる。僕だって辛い。だけど、母にそういった言葉を使うのは違う。
なぜ、彼はそれを止めなかったのだろう。そして、なぜ僕はそれを止められなかったのだろう。
こんなことを書いて良いのだろうか。実はこれを書いている今も、ちょっと怖い。これを読んだ彼はどう思うだろう。凄く怒るかもしれない。そもそも、基本的に僕を褒める事は無い。中学校の時、野球部の試合で始めてヒットを打った時は「あれはただの振り遅れだ」と言ったし、芸人になりたいと言った時は、「お前で笑ったことは無い」と言い放ったし、昨年出版した一冊目の本を読んだ感想は、「この薄さで１５００円は高い」というものだった。
でも彼は今回の本の完成を楽しみにしてくれている。僕が、「次の本はお母さんについて書く」と言ったからだ。ただ、どうやら、彼について書くことになりそうだ。
晩年の母と話した時に、彼について「よろしくね」と言われた。
その時の母は、恐らくだけど、自分が旅立つ事を受け入れていて、凄く冷静に、しっかりと僕を見て「よろしくね」と言った。母は、自分が居なくなることで、彼がどのような感情になるのかを分かっていた。恐らくだけど。
「よろしくね」と言われても、どうすればいいのだろう。
今思うのは、この本を書くことで、彼の悲しみが少しでも和らいでほしいし、母が居ない寂しさを乗り越えて欲しい。
しかし、僕が予測する彼の感情は、的外れで、独りよがりな願いの可能性もある。もう既に乗り越えている可能性もある。分からない。
母に「よろしくね」と言われた。
そして僕は、母についてではなく、彼についての本に方向転換した。
僕の勝手な想像や解釈に彼は怒るかもしれないけれど、「あなたについて書きたいと思っています。いいですか？」という連絡を事前にして、許可をもらっている。
「許可を取らんといかんような事やったら、最初から書くな！」とも言われた。いかにも彼らしい返事だった。
書くのはまだ怖いけど、僕を含めて、母の事を大好きな人たちが、母は居なくなったけれど、それでも続いていくこれからの人生を、この本を読むことで笑って過ごせたらいいなと思っている。
二〇二四年 四月 中村 圭之介
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