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困窮してみた No.4 〜Homeless〜

【1.決裂】

『障害者なんかと結婚するからこんなことになるんだ』

この言葉をぶつけられて、僕とおよめさまは、完全に打ちのめされてしまった。
およめさまもまた、この一言で、それまで張っていた気持ちの糸が、切れてしまった。

その前の段階から、僕たち夫婦と母との関係は、おかしくなっていた。


挨拶をしたり、話しかけたりしてもかなりの割合で無視される。
お金のことなど、シビアな話になると、聞こえない素振りで完全に無視→からの話題変え。
ため息や不機嫌なオーラを撒き散らす癖(これは昔から)がエスカレート。


という状態が、僕の離職前から日常的になっていた。

母もかなりしんどかったのだとは思う。
前のエントリで書いたとおり、祖父の状態が悪化していたし、息子もこんなことになってしまった。友達と会えば否応なく『息子さんは?』という話になるし、そんな時に本当のコトが言えるはずもない。
家にいればいたで、息子と嫁は常にべったりで、話もできない。
ふたりだけで世界を作って、阻害されている気持ちにもなっていたかもしれない。

仕事をしていない妻は、同じく家にいる母と、文字通り一日中一緒になるわけで、不機嫌なオーラに常時ビクビクしなければならず、僕だけが精神的な救いだった。
僕は僕で、日々がしんどすぎて、妻に救いを求めた。
夫婦間の需給バランスは釣り合っていたけれど、母のことまで考えてあげられる余裕は、全くなかった。

本当に悪いことをした、とも思うけれど、その時は、もう本当に、それどころではなかった。

あ、もうだめだ。

と思った後は、もう常識的な思考は全くできなくなっていた。
とにかく、妻を守らなきゃいけない。
この人が壊れてしまったら、僕も死ぬしかない。

僕は、母親を捨てる覚悟をした。

母が実家から戻ってくる日、僕たちは外に出て、いつまでも帰れずにいた。
妻と僕のノートPC計3台と、PC周りの周辺機器、マイボトル3本を袋に詰め、不格好に新宿の街をただただ歩き回った。
商業施設のベンチに座り、疲れと絶望で霞んだ頭で時を過ごした。
母からは、

『かえってこないつもりですか』

というメッセがきていた。
帰りたくない。
しかし、勢いで飛び出しただけなので、着替えすら持ってきていなかった。
その夜は、一度家に戻った。

翌朝。
昨夜同様、ノートPC3台と周辺機器一式と、とりあえずの着替え数枚を持って、家を出た。
丁度その日は、社協の担当者と話し合いの日だった。

社協に最初に相談に行ったのは、母が帰省中、この家出騒動の起こる数日前だった。
無職になってしまったこと、現在困窮していること、父の代からの、長く残ったままの負債があること、このままでは早晩生活が破綻しそうであること、そのためには母に生活を改善してもらわなければならないと思う旨を相談した。

社協からは、少額ではあるが、今の状況では返済が難しいとの判断で、債務整理を勧められ、法テラス初回の相談をその日のうちにした。
雇用保険終了までに就業先が決まらなかったら、最悪生活保護も想定した上で、なんとか生活を立て直しましょうということになった。

冒頭の言葉は、その旨を報告した際に帰ってきた言葉だ。
気位の高い母にとって、息子がそんな場所に相談に行った、そして「生活保護」という単語を僕が使ったことが許せなかったのだろう。
夫婦共働きで、豊かではなくても普通の生活ができることが、母の理想だったのだと思う。
ところが、一人息子が連れてきた結婚相手は、就労困難な障害者だった。

青天の霹靂というやつだったのだろうな、と思う。
結婚して、一緒に暮らしてきて、母もかなり我慢をしてきたのだろうとは思う。
だが、それだけは、言ってはいけない言葉だった。

社協の相談員には、母との状況を日々報告していた。交渉が決裂する可能性が高いことも。
その日、完全に交渉が決裂したことを報告した。

【2.迷走】

その日、社協の担当者との何度目かの話し合いで、もう母と一緒に暮らすことは不可能だと申し出た。
母が無年金である点については、祖父のもとに身を寄せることで当座を凌ぐことはできるだろうし、このままでは僕と妻が壊れてしまう。もう無理だ、と。

家を出てしまった現段階での問題は、住む場所だった。

就業までに、スーツケース2つ分までの荷物を持ち込んで、半年ほど生活可能な住居への入居可能な支援について、担当者さんが掛け合ってっくれたが、空きがなく断念。

離職など、経済的困窮で住居を喪失した人間に貸し付けられる、生活困窮者住居給付金については、対象となったが、満額の受け取りができず、この支援は『一生涯に一度しか使えない』とのことで、本当に最後の最後のためにとっておくことにした。

社協の担当者と区役所の福祉課へ出向き、生活保護についての相談。
雇用保険を使い切り、負債をゼロにした段階で、改めて来て欲しいとの回答。

生活困窮者向けの就労応援に登録(現在こちらで相談をさせてもらっている)。

僕の文章の稚拙さ故、たらい回し、と思われるかも知れないが、社協の担当者さんも、福祉課の職員さんも、法テラスの弁護士さんも、就労支援の担当者さんも、みんな真剣に向き合ってくれ、全ての事情を理解した上で、協力をしてくれている。
少なくともこの件で出会った公務員たちは、誰一人「お役所仕事」をしていなかった。

か細い糸一本でギリギリ自分たちを保っているような状況の僕たちにとって、彼らの優しさは、涙がでるほど有り難いものだった。

昼前から夕方まで、昼食もとらずに、社協の担当者さんとほうぼうに話を聞きに行ったものの、今現在の住居をどうするかについては、解決しなかった。

ぼくたちは、今日の宿を探さねばならなかった。
可能な限り安く、連泊可能な宿を検索し、なんとか確保した2日分の宿は、大塚の風俗街のど真ん中だった。
全体的に陰鬱な、ねっとりとした空気の道を辿り、コンビニのゴミ袋を漁るホームレスや、派手な風体の韓国人の団体や、立ちんぼと思われる露出の高いお姉さん達を横目に宿を目指す。
性的な方のマッサージのお店の隣に、その宿はあった。

その宿は、2日しかいられない。とにかく、雨露をしのげて、可能な限り安価に宿泊できる次の場所を、急いで探す必要があった。

ドミトリやシェアハウスであればかなり安価な場所があったが、知らない人とのコミュニケーションに強いストレスを感じるおよめさまのことを考えれば、その選択は難しい。
鍵のかからないネットカフェなどは、ほぼ全財産を持って歩いている状態では恐ろしくて使う気にならないし、10円20円単位で残金を数える中、コインロッカーという選択肢は、あり得ない贅沢だった。

いずれにしても、手持ちのお金で生存できるのは、どう計算しても、あと半月もなかった。
その次の雇用保険の認定日までの間、霞を食って生きるというわけにもいかない。
最悪、手持ちの電子機器をお金に変えることも想定しなければならない状況だったが、二束三文で売り払った後には、情報へのアクセスや求職活動のみならず、お金を稼ぐ手段も断たれてしまい、更に困窮することになる。

そして、雇用保険を受給している限り、他の福祉にはリーチできない。

キリキリと痛む胃を抑えながら、「ああ、これが福祉の『穴』ってやつか」と、ぼんやりと思った。

様々な例外的な状況により、困窮している実体に制度側が対応できなくなってしまうことは、どうしてもある。それを今、ぼくたちは実体験しているのだ。
そう思った。

とにかく早々に住居を探さなければいけない。
「住所」がなくなれば、就活もままならない。
路上生活に落ちる可能性は、すぐそばにあった。

靄どころか、濃霧立ち込める思考と、鉛袋のような体に鞭打ち、猛スピードで対策を探した。

張り詰めた空気の中で、携帯が鳴った。
相手は、エントリーしていた企業の採用担当者だった。
面接の日程についての連絡。

事情を話して断ることも考えたが、ここで決まってくれるなら、この苦境を乗り越えることができるかもしれない。
2日後の面接のアポイントを切り、通話を終えた。
スーツも革靴も、当然持ってきていない。
取りに帰る必要が生じてしまった。

戻りたくはなかったが、仕方ない。
明日の昼間にでも取りに行って、早くこちらに戻ってこよう。
荷物を運ぶにも、スーツケースがあればもう少しラクだし、妻の常備薬も必要だ。
着替えも、もっと要る。

とにかくそれは、明日の話。
再びノートPCの画面に向き合い、今の自分のような、訳ありの人間でも契約ができるような物件を扱っている不動産屋を見つけた。

そのあたりで、精神力が尽きた。
張り詰め続けていた精神力が尽き、ベッドに横たわった。

疲れた。
死ぬほど疲れていた。
いろいろなものに疲れすぎて、一睡もできていなかった。
これからのこと、ただでさえお金がないのに、宿代で数万が飛んだ。
この後の生活を考えて、このやり方でやっていけるとは、到底思えなかった。
この先、どうやって暮らしていけばいいのか、全く見当がつかなかった。

多分、ものすごく馬鹿なことをしているのだろう。
でも、これしかもう考えられなかった。
僕一人なら、どこで野垂れ死のうと構わないが、そうなれば妻は路頭に迷う。
僕が生を手放さない理由は、本当にそれだけだった。

住所こそ辛うじて残っていても、心の帰る場所は、もうおたがいの側しかない。
心の上では、ぼくたちは既にホームレスだった。


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