「神はサイコロ遊びはなさらない」 アインシュタインは量子力学を「理解」していなかったのだろうか
量子力学を理解できなかったのか、違う、量子力学の物理の本質を的確にとらえていたがゆえの問題点の指摘。非常に優秀なインタビュアーがするどい質問をすることと一緒だ。※表題はアインシュタインの名言集から
君は,君が見上げているときだけ月が存在していると本当に信じるのか
これはいわゆるコペンハーゲン解釈を批判した言葉だ。量子力学によるとある物理量は波動関数で表せて、それを観測することによって波動関数(波束)が収縮し、実在化する。観測するまでは、収縮が起こらず、波動関数はその意味するところのただの確率分布を表し、どこにいるか、実在しているのかどうか、も含めて確定していないことになる。これをもって、では、月を考えた場合、見ていなくたって明日また昇ってくるではないか、物理の実体は観測するかどうかによらず、常に実体としてある、との主張だ。当然ながら、ブラウン運動のような本質的に確率過程の物理に対しての主張ではなく、そういった確率的な要素が全くない物理の問題に対して、確率解釈を導入するのは間違っている、ということだ。確率過程と決定論的物理を明確にわけて議論しているという点で、量子力学の物理の本質を理解している、といえる。もっと詳細に知りたい方は、いろいろなサイトにのっているのでそれを参考に(シュレディンガーの猫とかエベレットの多世界解釈とか)。
神はサイコロ遊びをなさらない
これは量子力学の不確定性原理や波動関数の解釈(確率分布)を批判した言葉だ。例えば、粒子の位置を測定したとする。古典力学(ニュートン力学:巨視的スケール)では、初期値がわかっていればその後の粒子の位置は決定論的に決まっていることになる。これを量子力学で取り扱うと、粒子の位置を意味する波動関数(波束)は確率分布関数になっており、どこにいるのか確定されていない。外側から確率的な要素で何らかのランダムな外力が加わったわけではないにもかかわらず。粒子の位置を観測し続けると、たしかに、量子力学が予想した通り、ある確率分布が現れてくる。どこにも確率的な要素がないのに、このような確率過程が入り込んでいることを、アインシュタインは、神はサイコロ遊びはしない、と表現した。つまり、そういった物理は決定論的に決まっており、どこにも確率の要素が入り込む余地はない、ということだ。これも、量子力学の波動関数の解釈の本質を理解している、といえる(例えば、ボーアとの光子箱の論争など)。
EPRパラドックス(隠れた変数)
量子力学の非局所的相関(遠隔操作)などについて、アインシュタインは、ポドルスキ―、ローゼンとともに思考実験の論文を発表した。この量子力学に対するパラドックスは頭文字をとって、EPRパラドックスと呼ばれている。これは、量子もつれ状態(量子エンタングルメントや量子力学の対称性など)に関連しており、このノートの範囲を超えるので、興味がある方は、他のサイトでじっくり読んでいただきたい。
簡単に説明すると、ある粒子のペアがあって、スピンが上向きと下向きになっているとする。このスピンの状態は、必ずこの上向き下向きペアであり、上上や下下にならない。そのペアの片方を自分で持っていて、もう片方を月にいる友人に送るとする。自分が持っているほうが上向きスピンなら、必ず、月にいる友人のスピンは下向きになる。つまり、かなりの距離が離れていても、自分が持っているスピンの方向を上向きと「観測」したとたん、もう片方は「下向きである」という相関関係が伝わることになり、それが観測した「瞬間」に伝わることから、高速を超えて情報が伝わったことになり矛盾が生じる、という内容(かなりざっくりとした説明だが)。これは、ベルの不等式を経て、アスペにより実験で検証され、アインシュタインの主張が間違っていることが証明されたのだが、そんなことはどうでもいいことで、やはり量子力学について十分に「理解」しているからこそ、そういったパラドックスを主張できた、ということになる。
「理解する、理解しようとする」ことは非常に重要だ。量子力学を単なる電卓のような使い方をして、わかっている、というのはどうかとおもう。量子力学が生まれてまだ100年しか経っておらず、その解釈についてはまだまだ議論の余地は多く残されている。人間のスケールが今のスケールだからミクロ(量子力学)とマクロ(古典力学)の違いが出るのか、じゃあ、原子レベルのニンゲンがいたとして、どうなるのか。スケールは宇宙の定数が決めることであり、人間かどうかは意味がないのか。多世界解釈や多重宇宙論は導入する意味のない概念なのか。「実在」や「存在」とはなにか。