ハードSFの書き方13(「イヴの時間」を参考に)
※タイトル画像は公式HPからのフリー素材です。
吉浦康裕監督アニメ「イブの時間」を観てのSFの書き方メモになります。
アンドロイドが登場することから、当然、「ブレードランナー」を避けては通れないのだが、ここはそちらとの比較ではなく、「ヒト」と「アンドロイド」を「感情」というキーワードで考察する。一部、「アンドリューNDR114」も含む。
人間に対しても、「あんたなんか人間じゃない」「血も涙もない」という表現が使われるように、ヒトがヒトらしくない行為をするとそう言われる時がある。では、「ヒトらしくない」という表現は「ロボットみたいな」に言い換えることができるのであろうか?
一方で、ロボット、ここでは、アンドロイドと呼ぶことにするが、その個体に対して、「まるで人間みたい」「ヒトに似すぎて逆に不気味だ」という表現が使われたりする。「人間みたい」という表現は「ロボットらしくない」に言い換えることができるのであろうか?
人がどんどん冷徹になっていって、「ロボットみたい」な方向へ向かい、アンドロイドがどんどん感情を持ち始め、「人間みたい」な方向へ向かっていったときに、どこかで接点を持つのであろうか?そのときに、その個体をどう呼べばいいのか?もはや「ヒト」ではなく、もはや「アンドロイド」ではない。この状況は、ロビンウィリアムズ主演の「アンドリューNDR114」のメインテーマでもある(そこでは、エンディングで「ヒト」として認められるのだが)。
本来であれば、「意識」「自我」とは何か?から説明しないとそのあたりは語れないのであるが、それは作品をどういうものにするか?どういうものにしたいのか?に依存する。こてこてのハードSFのようにすれば、当然、主人公も高校生とかではなくなり、研究者とか博士とか固い人物になってしまいかねない。広く多くの人にまずは考えてもらいたい、そういったアニメにしたい、という方向ならば、ヒトとアンドロイドの区別をもっと単純に「感情」があるか、ないか、程度に抑えておいてなんら問題がない(このあたりに興味がある方は、監督のインタビューを参照してください)。「単純」と書いたが、よくよく考えると全然単純ではないのだが、構成、演出などで調整できよう。
このように、ヒトとロボットとの区別、というテーマはかなり古くからあるが、切り口を変えれば、いろいろな非常に興味深い側面がえぐり出せ、それを1つの作品にまとめあげるのはかなりの才能が必要であろう。監督は「アイの歌声を聴かせて」でも人工知能に対するユニークな見識を表現している。今後もこのテーマの作品が発表されるのを楽しみにしている(というか、自分で創りたい)。