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映画『愛と法』
2019年。
新年、そして平成最後の年。
去年の映画納めになったタイトル『愛と法』。
これもまさに初期衝動を思い出させてくれた作品。
この映画はドキュメンタリーで、主に登場するのは男性同士のパートナーカズくんとフミくんという二人の弁護士。
その二人の日常と、ちょっと世間を賑わせた「ろくでなし子」さんの裁判のシーンで成り立っている。
この映画が面白いなと思ったのは、彼らが二つの社会的抑圧と闘っているのを描いているところ。
一つはセクシャルマイノリティであるという部分。もう一つは、人を守るためにあるはずの法律によって傷つく人がいるという部分。
まず法律の部分。「ろくでなし子」さんの裁判があった時、大学界隈でもいろいろな議論があった。芸術の自由が云々とか。
詳しいことは省略するけれど、フミくんが人を救いたくて弁護士になったのに、それが叶わないなら法律はなんのためにあるんだと憤ってるシーンに、揺さぶられた。(劇中とは一言一句合ってないかも)
「弁護士」という職業を語る時、私たちは少なからず「エリート」に近いニュアンスをもってカテゴライズしながら話すことが多いように思う。
そのイメージと少し離れた泥臭く、そして社会的地位とは相反するジレンマを抱える姿。
法律をもってしても救えないものに対しての怒り。
そしてもう一つは、セクシャルマイノリティ。ここ数年、ノンフィクションもフィクションも、映画でもそうじゃないコンテンツでも、社会的にとても寛容になってきたと思っている。
この映画の中で描かれる彼らへの抑圧は、ほとんどが言葉で語られる。母親の言葉、彼ら自身の言葉で。
それを知りながら、ただ平然と毎日を過ごす彼らのコミュニケーション、恋人然としたふれあいを目にすると、それだけでその空気や視線の絡み合いに、ただただ「愛」を感じる。
誤解を恐れず言うと、彼らは「チョーイケメン」とかではない。
劇映画で描かれるセクシャルマイノリティのパートナーは、役者と呼ばれる職業の人たちが映されているので、「美しく描こう」とされていることが多いと思う。
その上で、今回の映画の中の市井の人々である彼らのふれあいは正直に言うと一瞬奇妙に感じてしまった。
そう感じたことの理由は、ただ単純に目にする機会がなかったからだと思う。(わたしが女性であるということも含めて)
今まで目にしたことのなかったその触れ合いは(手をつないだりとか、頭を撫でたりとか。)、なんだかとても儚げで、でもセクシーで、普通の映画をみるよりもよっぽど、ドキドキした。
「撮られている」ことへの緊張感もあったのかもしれないけど、そこにはやっぱり温度の高い感情があった。
映画館を出た瞬間、路地を歩きながら快晴を目の前にして、そっとひたすらに「あぁ、愛だなぁ」と。
映画をみるときって、友達に聞くか、テレビで広告してたか、映画館の予告をみるか、が主なきっかけだと思う。
それでいうとこういう映画ってミニシアターでやってることが多いからそういう場所があることすら知らない人が多いし、宣伝費もあまりないし、ここまでたどり着くのが本当に難しい。
でもこの愛っていう人類史上最強に普遍的なテーマにみんな感情移入せざるを得ないと思う。
これをきっかけに、自分たちとは少し違う人生を生きている人の気持ちに想いを馳せることをしてほしい。
みたら絶対に、この映画がうまれたことを嬉しく思う。