我が子を「できる子ども」にする、たった一つの力(伊藤氏貴氏) #国語教育
新課程国語批判の火付け役、伊藤氏貴氏の論考を見つけた。
じっくり書いている余裕がないため、今回は短めに。
我が子を「できる子ども」にする、たった一つの力|中学受験を考える前に、必要な能力とは?【前編】
我が子を「できる子ども」にする、たった一つの力|小学生の間に身につけておくべきこととは?【後編】
上記記事で伊藤氏は「想像力」を軸に国語力強化を訴えており、その手段をとかく小説読解に求めている。が、具体例と噛み合っておらず違和感を覚えた、というのが主な感想。
以下詳細。まず『銀の匙』エピソード。
私学灘高校の国語教師、橋本武氏のスロウリーディングの実践例は国語界隈では割と有名。伊藤氏は生前の橋本氏や教え子のインタビューを通して『銀の匙』実践を外部に広めた人間でもある。
なのだが、氏の著書をを読む限り、あれは『銀の匙』を軸に多様な文献を比較読みさせる実践で、ただゆっくり読ませているわけでない(ちなみに古典は別枠で教えていたとか)。何より、教科書無視の持ち上がり授業ができる灘高校独自のシステムに依存する点が大きい(そのせいか、『銀の匙』実践を受け継いでいるという実践を私は今のところ聞いたことがない)。
実践として優れている点は理解するが、これまでの平均的な国語教育実践として逸脱しているのは明らか。新課程を批判するためのサンプルとしては一般性に欠け、適切な事例にはなっていない。
次に大学生の履歴書実践。
氏の実践自体には感銘を受けたが、履歴書の質の低さの原因を想像力不足に求め、その対案を小説に求めるのは無理筋。氏が大学の授業内で小説を読ませ、履歴書作成ないし他の国語力強化に有意な影響が出たと主張するなら話は別だが、そうではなく、履歴書を交換し、相手の履歴書の不備を理解することでそれを補っている。伊藤氏のいう想像力の育成手段が小説とは限らないことをいみじくも証明しているように私は感じた。
また、関連するSNSによる想像力欠如も同様。この問題については私も明確な対案が示せないでいるが、少なくとも小説を読む・小説を扱った読解授業をするだけで改善できるようには思えない。
特に、過去に発生した長崎の同級生殺人には当時のSNSに加えて当時話題の小説の影響もあったと言われている。伊藤氏はこの件をどう説明するのだろう?
終盤の多読学生の国語力について、多読が国語力に結びつかず、読みの深さが大事という点は一応同意。ただし、多読だろうが精読だろうが、国語入試の点数目当てなら傾向と対策をつかみ場数を踏むのが先決だろう。読書ジャンルを小説に限定するのは危険。 高校生の多読それ自体に目くじら立てるのも誤り。
本記事での伊藤氏の問題意識が想像力にあったことは大きな収穫。ただしその手段を小説に限定したことで我田引水の記事となった点は残念(国語関係者あるある)。 国語関係者の感想も見てみたい。伊藤氏のような主張に賛同・批判がどれだけあるのか。
ブログの下案をつぶやいたところ、偶然か必然か、以下のような反応が見られた。Noteのブログで本記事に出会った方々はどのように感じただろうか?
最後に、記事にもある伊藤氏の近著のリンクを貼る。
現時点で未購入・未読だが、そのうち読む。
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