新課程国語でどうしても文学授業を実践したいと切望する方々へ #国語教育
2022年実施の新課程国語に関わる問題について、私は微力ながらいくつかの反駁を試みてきた。
しかし、新課程が導入されて2年目(すなわち「論理国語」「文学国語」などの本格実施が始まる時期)にも拘らず、現場の動きはあまり見えてこない。ただし中には、匿名の一部発信者(私もその1人だが)から、
”「論理国語」の枠内で、隠れて文学授業を実施する”
的な発信がSNS上で観測されている。新課程を推進する側として看過できない動きであり、何かしらの提言をしなければと感じていた。
当初の私の方針は、「現代の国語」「論理国語」の方針をかみ砕いて伝えることにあった。私は文学教育の在り方自体に批判的な立場だが、かといって道徳的な判断や日本人としての教養(共有知)自体を否定するものではない。国語教育を巡る過剰な文学推し言説と、それを鵜呑みにする教育関係者への自省を促したいだけである。
そしてその自省が、現状の国語教育の課題改善の糸口にもつながると考えている。
しかし論考を練るうち、「隠れて文学授業を行う」という流れは反対派にとって想定外の事態を引き起こす可能性があると気づいた。後述するが、それは場合によって現職そして該当の生徒にとって多大な負担を強いるもので、かつ私が新課程国語に賛同し、批判意見に反駁する目的とも大きく異なるもの(要は私の望まない結末)だ。
本稿での発信には、現場の教員にとって辛辣と受け止められるものも含まれる。それ自体は覚悟の上だが、現場の教員と対立すること自体は本意ではない。このことは先に明記しておきたい。
そして、本稿での考察はあくまで私個人の見解に過ぎない。新課程国語に賛同する立場ゆえ、本稿の内容は文科省側と共通する部分もあるが、必ずしも同一ではない点にもご注意いただきたい。
1.国語力育成に必須の教材とは
大前提として、新課程国語において「現代の国語」「論理国語」で文学教材が”一切扱えない”とする主張は、そもそも厳密には誤りというのが本稿での立場である。その論拠はあとで簡単に述べるが、必要であれば新旧の学習指導要領や関連する資料などを各自ご確認いただきたい。
※学習指導要領解説の最新版はこちら。
とはいえ、新課程の学習指導要領において、高校国語の現代文学教材の比重が以前に比べ大きく抑えられた(「文学国語」を選択しなければ)。このことは客観的な事実として押さえておこう。
では、新課程で現代文学教材の比重が抑えられた理由は何か。それは、
文学教材の読解で身につく資質が、「論理国語」の目指すそれとは異質なものだから。
これに尽きる、というのが私の見解である。
まず、PISAの読解力調査で出題されるような文章を読み解くには、自明であるが出題形式に近い文章の読解経験がものをいう。もちろん、ただ読ませる・問題を解かせるのではなく、教員側の適切な授業・サポートが効果的なのは言うまでもない。
PISAの読解力調査の傾向は、以下のリンクにあるサンプル問題で掴めるだろう。実際の実施問題はこれとは異なり、また実施年度により少しずつ傾向が異なるようだが、本稿でその点には立ち入らない。
OECD 生徒の学習到達度調査(PISA) ~ 2018 年調査問題例~
https://www.nier.go.jp/kokusai/pisa/pdf/2018/04_example.pdf
ここで注意すべきは、PISAの読解問題には文学的要素が注意深くはじかれていることだ。その理由はさまざまだが、本稿では、
文学的文章(やPISA調査と無関係な文章)を読ませても、PISA的な読解力が”評論同等に”身につくと考えるのは相当な論理飛躍だ
とだけ言及し、論を先に進める。
実際、読書のジャンルが偏っていると、読書好きの児童生徒でも国語が苦手という事例がままあるようだ。下記コラムのインタビューが参考になる。
上記の記事では、著名な教育評論家(石田勝紀氏)のコメントを取り上げる形で、こう述べられている。
つまり、読書好きな児童生徒であっても、評論系の文章(新課程国語でいう論理的文章)を読まない生徒がその手の文章を読めるようにはなりにくい、という至極明快な話なのだ。
本稿では以降、このコラムの主張を是として考察を深めていく。
もちろん、このコラムの内容はエビデンスとして充分とはいいがたい。当然ながら、児童生徒の中には例外(物語文が好きで国語が得意)もいることだろう。これと異なる見解(できればエビデンス付き)があればぜひとも紹介いただきたい。
2.”文学の除外”はどこまで事実か
前節で述べたのは、PISA的な読解力向上には評論系の文章読解が特に重要だということ。ただし、先の記事での主張そのものは”読書ジャンルのバランスの維持”であり、評論系の文章読解の有効性を示している一方、決して文学系文章の扱いをゼロにせよと主張するものではない。
とはいえ、前節の主張は新課程と食い違っていると認識している読者も多いだろう。実際、新課程は圧倒的に「現代の国語」「論理国語」が求めるような実生活における読解(次いで古文漢文への親しみ)を重視しており、旧課程に慣れ親しんだ方ほどバランスの悪さを感じることだろう。
ただ、バランスを問題視するなら、新課程で2番目に重視される古文漢文についても言及すべきである。本稿で古文漢文の在り方に言及する余裕はないが、旧課程までは古文漢文込みだと評論系読解の時間は国語の時間の3割程度にとどまっていた、という事実も念頭に置かねばならない。
とはいえ本稿では、新課程国語において「現代の国語」「論理国語」で文学教材が”一切扱えない”とする主張は、そもそも厳密には誤りという立場に立つ。その立場についてもう少し掘り下げておこう。すなわち、
そもそも、学習指導要領レベルでは「現代の国語」「論理国語」において文学的文章を”原則的には”扱えないが、”条件付きで可能”である。
”原則的には扱えないが、条件付きでは可能”。
読者の中には、この見解に煮え切らなさを感じた方もいるだろう。
しかし、端的に述べるならこう述べるしかないのだ。
もう少しポイントを整理するなら、こうなるだろうか。
文学教材の扱いは可能? →可能
授業時間の10%程度を文学教材に使うのは? →扱い方による
授業時間の40%程度を文学教材に使うのは? →不可能
文学教材と評論系教材を混ぜた授業は? →扱い方による
ゴリゴリの文学鑑賞授業はできる? →ほぼ不可能
新課程の「現代の国語」「論理国語」は、いずれも実生活における論理的な読み書きを強化する趣旨の科目である。新課程国語を批判する立場の見解で見られる”文学でも論理は学べる”的な主張、その意図が「現代の国語」「論理国語」の趣旨通りの内容であるならば私も同意はする(部分的に)。
だが、先のコラム記事を参照する限り、”実生活における論理的な読み書き”には文学教材よりも評論系の教材読解が有効と考えるのが自然である。そして、その前提があるからこそ、文学教材は例外的な扱いに留められるべきだと考える。
そして、PISA等の結果からこのような判断をした文科省は、新課程国語の科目「現代の国語」「論理国語」を設定する際、文学教材を”原則的に扱わない”にしたのだろう。私はそう推測する。
もっとも、少数だが「現代の国語」「論理国語」で文学教材を組み入れた教科書が検定を通過し、少なからぬ学校で流通しているのも周知の事実である(採択数はさておき)。また、検定教科書で文学教材の導入を断念した出版社も、副教材という形で定番文学教材を扱える段取りをしているようだ。今回の教科書検定の在り方が新課程と別に批判されているが、本稿ではこれ以上深入りしない。
3.新課程での文学教材の試案
かくして、「現代の国語」「論理国語」で文学教材を扱うこと自体は”条件付きで可能”と述べた。前項の主張を簡潔にまとめるとこうなるだろう。
新課程の「現代の国語」「論理国語」は、いずれも実生活における論理的な読み書きを強化する趣旨の科目である。だから、それに適する評論系の文章を重視する関係で、文学教材については”原則的に扱わない”。
また、こちらも再掲しておこう。
文学教材の扱いは可能? →可能
授業時間の10%程度を文学教材に使うのは? →扱い方による
授業時間の40%程度を文学教材に使うのは? →不可能
文学教材と評論系教材を混ぜた授業は? →扱い方による
ゴリゴリの文学鑑賞授業はできる? →ほぼ不可能
ならば、具体的にどんな授業をすればよいのだろうか?
第一学習社「現代の国語」の1冊に掲載された定番教材『羅生門』を例に考察してみよう。この教材を「現代の国語」の枠内で扱う場合、以下に列挙したアプローチは”NG”となると私は理解している。
作者である芥川龍之介の文体・作品観・生涯についての提示する
教材に明記されていない『羅生門』解釈を提示する
執筆時の社会情勢に踏み込む
文学作品としての修辞表現を分析する
『羅生門』の続編やオマージュ小説の作成をする
これらが「現代の国語」の科目方針からは逸脱しているのは明らかだろう。端的に言って、この切り口は「言語文化」「文学国語」が目指す読み方の典型だからである。説明次第で「現代の国語」の趣旨に近づける可能性も残されているが、私には思いつかなかった。
ならばどのような切り口で授業すべきなのか。私なりの「現代の国語」の趣旨に沿った授業案を紹介したい。
現代の若者視点と対比させる形で下人・老婆の心理変化を分析する
読解の型(分析批評など)を明示し、その観点に沿って読み取る
『羅生門』という作品自体の現代への影響について考察・論述する
「現代の国語」に掲載された評論の補助(比較検討の材料)として扱う
いずれも、先のNG例とは違い、作品への没入を注意深く避けている。適切な表現ではないかもだが、いわば”芥川龍之介という作家が書き残したテクストの読解”に徹した授業案である。現職教員からすれば「面白くない」と言われるかもしれないが、その手の切り口を切望するならば、”「言語文化」「文学国語」で重点的に扱ってほしい”というしかない。
補足すると、4つ目の案については、第一学習社の教科書だと平野啓一郎の評論『「本当の自分」幻想』がちょうどよいだろう(それを想定してか、この教材の教科書上での配列は『羅生門』の直前である)。この2つをセットで扱い、主となる読解テキストは『「本当の自分」幻想』、副テキストが『羅生門』といった形式で両者の記述内容を”論理的に”比較する方法もあるかもしれない。
とはいえ、高1の初期に扱う教材として『羅生門』の扱いには少々無理があるというのが私の認識だ。実際、あるフォロワーへの返信でこのような発信をしたことがある。
とはいえ重要なのは、授業内容が「現代の国語」の趣旨に合致していることだ。「言語文化」「文学国語」が目指すような登場人物の心情、情景描写、作者の思想や人物像に力点を置くのではなく、あくまでいちテクストとして扱うこと、そして実社会を生きるための資質能力向上を意識し、その観点から評価していること、それを授業者側で説明できることが重要になる。
念を押す。「現代の国語」「論理国語」において例外扱いである文学教材をあえて導入する以上、両科目が目指す”実生活における論理的な読み書き能力”育成のために文学教材を有効活用する、という判断・説明がなされなければならない。つまり、「現代の国語」「論理国語」で扱われた文学授業は「言語文化」「文学国語」の目指すそれとは異質な切り口のものになる。
両者の授業には当然ながら共通部分はあるだろう。
だが、だからといって「現代の国語」「論理国語」の授業の一部を文学授業に振り替えられるという認識・判断は誤りである。
なお、ここで述べた件は当然、評論文・実用文を扱う場合でも同様である。評論文・実用文を扱う場合も、教材の読解に終始するのではなく、本来はどんな資質能力を学習者に体得するかを明示し、客観性ある評価を下す必要がある。そのことを見落とすべきではないだろう(こちらは教材そのものは指導要領準拠なので、反しているかどうかは微妙なところだと考える)。
4.先行事例は公開・蓄積されるか?
ここまで読んだ方々は、執筆者である私の立ち位置について奇妙に思われたかもしれない。文学教育の在り方を疑問視して新課程国語賛同に回っており、しかも現場の人間ですらない人間が、文学教育の実践案を提示しているのだから当然だろう。
何より、私が文学教育の実践案を提示するのは、2つの意味で不適切だと考えている。第一に、私は文学推しの授業そのものを軽減する立ち位置であり、このような形でも文学授業が普及していくことは本意ではないこと(旧課程ないしそれと同等の文学実践よりマシ、という程度)。そして第二に、現職の国語教員ではない私の実践案を現職の教員に提供する、という行為自体が専門家である現場教員に対し厚かましい行為と考えていることだ。
なのだが、現状で観測される新課程の文学授業事例は、概ね従来型の実践の枠を超えるものにはなっていない。そもそも現状、「現代の国語」「論理国語」の趣旨を踏まえた実践事例自体がそう多くない。
Google Scholar などで調べてみても、文学と論理を橋渡しする実践や論考は一定数存在する。だが、その手の実践・論考はそう多くはないし、何より旧来型の枠組みを前提にしたものが多い。また、文学授業や評論授業を資質能力(リテラシー)の観点から再考する論考もまま見つかるが、端的に資質能力まで言及した論考も多いとは言えない。
他方、新課程国語の反対派は真正面から新課程を批判するだけで、従来型の授業を追認するか、抽象的な賛美に留まっている。だから「現代の国語」「論理国語」で行うには方針から異なる実践、あるいは断片的すぎて意図の見えない文学授業実践ばかりが観測されるのが目に見えている。
これでは何のための新課程国語の枠組みかわからない。現状で反対意見が多数という実情を最大限くみ取るにしても、学校側の言行の裏表があからさまで、教育の在り方として誠実さに欠けると感じざるを得ない。
(すべての高校教員がその立場に立つとは考えたくないが)
当然、一部教員が隠れて文学授業をする場面も私はよしとしない。
だから、関心を持ついち発信者の目線から、たたき台としてとして実践例を提言するしかないと考えたのだ。
授業案としてレベルが低いと仰るなら盛大に笑っていただいて構わない。
ただし、その代わり、私の拙い実践案に代わる事例をぜひ対外的に提供していただきたいのだ。
無償でなくてもよい。
広告付きブログでも、有料の書籍でも、なんでもよい。
新課程国語の枠で「文学国語」を選択できず、それでもなお文学授業が有益だと信じるなら、それくらいの矜持は持っていただきたい。
陰に隠れて旧来型の文学授業が横行する、それだけは避けねばならない。
5.世界史未履修問題の再来?
最後に、少々恐喝めいたことを書かねばならない。
すでに述べた通り、新課程国語の「現代の国語」「論理国語」では文学教材の扱いは”例外”である。冒頭で、”「論理国語」の枠内で、隠れて文学授業を実施する”的なSNSの発信があると述べたが、それが現実に行われた場合、
指導要領の趣旨を無視して「現代の国語」「論理国語」で文学教材を扱う場合、世界史未履修問題同様の大問題となる可能性がある
ことは念頭に置くべきであろう。
世界史未履修問題をご存じない方はこちらをご覧いただきたい。
見ての通り、未履修問題のほとんどは当時の教員の善意、「指導要領を無視したほうが生徒のためになる」という発想の下で行われたもの。しかし新聞報道がなされ、文科省側からの大々的な処分、受験を間近に控えた高3生への追試、一部管理職の自殺までへと発展した。
未履修問題の真相については閲覧可能な資料が少なく、不明な点も多いが、未履修の対象となった科目の多くは世界史あるいは情報などで、国語や英語でその手の話題が出た様子はない。
とはいえ、「文科省が設定した科目の枠で、その科目の趣旨とは異なる授業を実施する」それ自体が未履修問題の本質である。この事件が大々的に報道されたのは2006年頃なので、2023年現在の教員の中には知らない方もいるのかもしれない。が、この事件の結末を見るに、知らなかったですまされないレベルの問題であることは明らかだろう。
だから、「現代の国語」「論理国語」の枠内で隠れて文学授業をする、ということは避けていただきたいのだ。文学授業を行うなら、3節で述べたようなテクスト読み、あるいは同等の両科目の趣旨に沿う実践にしてほしい。
※2023/02/26に加筆。
なぜなら、ことは単位認定、高校卒業認定の信頼性に関わる問題なのだ。仮に文科省からの処分がなかったとしても、そもそもの新課程設立の過程(実用文読解の課題)が改善されない以上、さらに文学推しの教員にとって窮屈な指導要領が10年後に誕生するだけである。そんな10年後を新課程国語批判に立つ方々が希望しているとは思えない。
そもそも今回の新課程国語も、指導要領の変遷を踏まえれば過去の実践の課題を踏まえたものなのだ。新課程国語批判を行う方々からは過去の国語教育課題を認識しながら、新課程の在り方は改善策にならない(悪化する)とする見解も見られるが、代わりとなるカリキュラム案にまで踏み込んでいるのは現状、日本学術会議のみである。
新課程国語で「文学国語」を断念し、「現代の国語」「論理国語」の授業を陰に隠れて実践しよう(しかも旧来の型で)と考えている方々には、本稿で言及した話をもとに、ぜひご自身の答えを用意していただきたい。
文科省の方針を無視してまで文学授業を強行する”大義”は何ですか?と。
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