ターニングポイント
2018(平成30)年4月
私の三十五歳の誕生日前夜。
「会社を辞めて農家を継ぎたい。
相談ではなく決意表明です」
両親を居間に呼び、正座し面と向かって自分の思いの全てを伝えました。
しばしの沈黙を経て、父が口を開きます。
「いつかは言ってくるかもしれないと思っていたけど、今か。まだ早いんじゃないか。
でも自分で決めた以上は納得いくようにやってみなさい」
母は困惑していました。
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両親から農家を継いでほしいと言われたことは一度もありませんでした。
それどころか過去には高校入試を目前に
「農業高校を受験しようと思っている」
と打ち明けた私に対し母は
「これからは絶対に会社員の方がいい。
資格をたくさん取れる学校に行ったら?」
と、たしなめていたほどです。
反抗することなく、言われるがまま商業科を受験しました。
高校を卒業する頃には農家を継ぐことは頭に無かったと記憶しています。
しかし長男である以上、家は継ぎたいと思い、実家から通えて転勤も無いであろうと石川町の母畑温泉八幡屋へ入社。
フロントから始まり様々な部署を経て、地元界隈のセールス兼ブライダルプランナーの業務に携わります。
数々の結婚式を担当していく中で
「何年後になるか分からないけれど、自分が担当した新郎新婦さんのお子さんの結婚式までプロデュースしてみたい」
という夢を抱きました。
しかし、ある出来事がきっかけで、自分の中にくすぶっていた農家の長男としての魂に火が付き、その夢を諦めたのです。
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実家は以前、酪農をなりわいとしていました。中学から高校までは部活から帰るなり夜の乳搾り、搾乳機洗浄、肥出し、エサやりなどの手伝い。稲刈りシーズンになれば、夜の乳搾りの後に町内の田んぼを巡り『わら集め』という過酷な作業が待ち受けています。
そんな生活をしていたので、自分でも気付かないうちに手伝うことが当たり前になっていました。
2009(平成19)年に酪農が廃業し、両親は米農家に転身。
それから数年、法人化して年を追うごとに米の作付けや作業受託する圃場が増える状況を目の当たりにしました。
田植え・稲刈りシーズンになると、会社が休みの日は当たり前に農作業の手伝いをする日々。
後継者不足や耕作放棄地の増加など、国内農業の抱える問題も肌で感じるようになります。
「いつかはわからないけど、いずれ継がなくてはいけない時が来るだろうな」
と考えていました。
ある日、私は興味本位で母に
「法人化したけど、もし俺が継ぎたいと言ったら?」
と問いました。
母は
「あなたは今の仕事に専念すればいい。息子じゃなくても継げるように法人化したんだよ。いずれここで農業を志す若者が現れたら、自信をもって引き渡せる会社にしようとしてる」
と言ったのです。
この言葉に長男としてなんだかむなしさが込み上げ、同時に自分の考えの浅はかさを痛感しました。
目が覚めた瞬間です。
あの時なぜむなしかったのか、
何のために継ぐのか、
自分に何ができるのか。
今なお自問自答を繰り返しています。
そして、そこに生まれる様々な感情や葛藤が今の私の原動力でもあるのです。
福島民報新聞 民報サロン
2022年3月25日 掲載