何者かになるとは
何者かになるとは?
これは私が常々考えていることである。
今までの人生何かを成し遂げたこともなく、ただ流れに身を任せて生きてきた。
だからか、いざ何者かになろうとすると、何からしていいか、どうしたらいいかわからない。
そこで悩み病みそうになる。周りとの差を痛感し、心が折れそうになる。
そんな時みんなはどうしているのだろうか?
おそらく、既に何者かになっている人はこの経験を早いうちからし、それを乗り越えるという成功体験をしているのではないかと私は考える。
つまり、今成功しているように見える。運がよく才能に恵まれたあの人も裏では、いつかは、どこかでは、同じようなことで苦悩し、壁に当たっているはずである。
ただただ、その経験が早いためその速さがアドバンテージとなって今に現れているのではないかと考える。
ではなぜそれにはやくから取り組まないのか?それにはさまざまな要因が考えられる。
例えば親の過保護。親が失敗を恐れるあまり、子供から無理な挑戦から遠ざけ、失敗という経験をさせないということである。
他には、始めてしまえば壁にぶつかり絶望することがわかっているから、そもそも取り組まない。目を逸らしているといったことも考えられる。
例えばプロゲーマーと呼ばれたり、上手い人たちっていうのはそのゲーム版な訳で早くからゲームに触れてきたから、まだ十分若い今でもその才能が溢れ出ているわけである。
しかし、私のような同年代でそんな人に憧れた人は同じ年代だから追いつけると思っても無理なのである。
また、世の中は非情でそんなことは考えてくれない。見えるものは結果だけ。つまり上記のプロゲーマーのような人が評価されるのである。
ならば私はもう無理だ…と諦めたくもなるけれど、そうはいかないのが世の定め。
今私に必要なことは、諦めることではない。そんな差を壁を感じながら今の自分がどうやってその障害を越えるていくのか?その方法は?ということを考え、実行し、成し遂げるということが必要なのである。
これを成し遂げることができた時、私は初めて本当の意味で成長できたと言えるのかもしれない。