「一喜一憂してこそ退屈のない人生と言えよう」

 2018/8/15  鱧も食べずに

 鱧も鰻も食べずに残暑を迎え、夕方になれば少し離れたあたりに秋の足音が聴こえる。夏は乗り切れようとも寂しいことこの上ない。

 組織人としての職業生活にとりあえずの区切りをつけた今夏。私が最後の数年に陥った罠について回顧することとしたい。

◆◆◆

1 「社会人」になる手続をした覚えはない

 「大学の自治」の庇護から一歩外に足を踏み出すと、どうやら当然に「社会人」という枠に組み入れられるらしい。私は自ら進んで「社会人」になった記憶はない。

 つい先月まで、数万人を雇用する「組織らしい組織」で働いてきた立場であるにも関わらず、この「社会人」という概念は未だに受け入れ難く感じる。むしろ、それを受け入れ難く感じたから職を辞した面も、無きにしも非ずである。

 かつて私は、「社会人」として現代社会を健全かつ効率的に生き抜くためには、「バランス感覚」を身に付け心身ともに健やかに保ち、かつ仕事を効率的に回していくことこそ肝要であろうと考えていた。

 そして、この「バランス感覚」という、何とも掴み所のない幻想を追い求めることとなった。

2 求めれば遠去かり、そして失速

 社会的な意味としての「バランス感覚」とは何か。

 私が考え、そして求めたその中身は「『教科書的な理性』と『実社会の感情』の差異を理解し、そこで臨機応変かつ柔軟に均衡を保つ能力」である。

 社会は常に変化するものなのであるから、そこでバランスを保つのは大変な作業である。早く吊革的なものに掴まりたい心境であった。

 しかし、満員電車と同じく社会における吊革も有限希少なものであったようである。全員が掴めるものではないし、もしかしたら、そんな便利なものは存在すらしていないのかも知れない。

 バランスを取るのに時間と労力を費やした結果、私自身の能力が年々劣化してきていることを感じた。まだまだ平均寿命に至るまでには時間がある。それに比して、劣化速度が早すぎた。

 「これは失速だ!」

 日々の乱気流に注意を向け過ぎた結果、自身の推力低下に気付かず、結果として失速、急激に降下していたようである。

3 目先のことに集中せずして先はない

 私がバランス良く生きるなんて無理である。人には適性がある。これが現在までに至った結論である。決して投げやりになった訳ではない。

 少なくとも、私が今最優先に考えるべきは「社会人たるバランス感覚」ではなく、再び「推力」を得ることである。推力が無ければ、自転車すら進まない。

◆◆◆

 今は、自らが選んだ方向に向けて全力で助走しよう。
 残暑の最中における抱負として。

ここまでご覧頂いただきまして誠にありがとうございます。 大事なお時間に少々の笑顔をお届けできれば幸いです。