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「ショパンの曲はコーヒーのような」

 2018/8/2  半日で辿り着く遠い場所へ

 ショパンのエチュードを聴いていたら、かつて訪れたワルシャワの街が恋しくなった。今は、僅か12時間で辿り着く距離が遠く感じる。

 「ワルシャワは、直行便が就航したら行こう」
 そう思っていたのは学生の頃の話である。当時より定期便が就航する気配はあったものの、それが現実のものとなるまでには思ったよりも時間が掛かった。私は、長らくショパンの祖国に行ってみたかったが、気付いたらそれは後回しになっていた。

 私のような音楽の知識が乏しい人間であっても、ショパンの音楽からは何か感じるものがある。それは、その時々の私の精神状態と共鳴するものである。気力が漲るときには心を鼓舞され、落ち込んでいるときには更なるどん底へと突き落とされる。まるでカフェインのように思えてくる。いつか、ショパンの祖国を訪れ、その音楽の根底にあるものを全身で感じたいと企んでいた。…というと大袈裟過ぎるかも知れないが。

 長らくの願いが成就し、ワルシャワに赴いたとき、独特の重い空気に圧倒された。その前年、エストニアのタリンで感じたものと似ている。これは歴史の重さであろうか。中央駅周辺の商業エリアは、スターリン様式のタワー(文化科学宮殿)が「東側」の空気を醸し出す。そこに「西側」を象徴するマクドナルドがある。東西の文化が混沌としている。

 旧市街、新市街は美しく平穏である。しかし、どうにも静か過ぎる印象を持った。これは、悲痛な歴史が見え隠れしている気がしてならない。復刻の傷跡であろうか。

 歴史にも疎い私が先入観も知識もほとんど持たずして、それでも感じたものは、そこに歴史のメッセージが色濃く残されていることの表れであろう。前述したショパンの曲に感じるものも同じく。聖十字架教会にある、ショパンの心臓が眠る柱の前では、体が動かなくなるほどであった。ここに来て良かった、と思った。

 ちなみに、ワルシャワはビールが安くて美味である。これは、先に述べたタリンとの共通点でもある。郷土料理は、水餃子やペリメニに似た「ピエロギ」が美味であり、滞在中何度も食した。帰路の機内食でも食べた。

 ワルシャワを離れるときには、また直ぐに来られるであろうと思っていた。しかし、その後、予期しないことが立て続き、現在に至るまで再訪できていない。

 次に行けるのはいつになろうか。それは、私が自らに課したいくつかの計画が成就した後になろうと思う。いつだって、予期しないこと(予期しても、それに目を瞑っていること)は起きる。だから、今出来ることは今やりたくなる気持ちはある。しかし、何でも「今」やっていては際限がなくなる。

 いつかまた、ビアホールで1リットルのジョッキを掲げたい。ズブロッカとともに、思う存分ピエロギを食べたい。その日が早く訪れるよう、今は目の前のことに集中しよう。

2018年8月最初の日記は、懐かしの地に思いを馳せて。

ここまでご覧頂いただきまして誠にありがとうございます。 大事なお時間に少々の笑顔をお届けできれば幸いです。