懐刀(ふところがたな)の役割
名君に優れた側近
歴史上、名君といわれた人には必ず、優れた側近がいました。呼び方は右腕、参謀、懐刀(ふところがたな)と様々ですが、名君は側近の諫言を受け入れています。
中国史上最高の名君といわれた、唐の第二代皇帝、太宗(たいそう)は「上司の過ちを諫めてこそ部下の部下たる本質がある」といっていると言行録「貞観政要」に載っています。
徳川家康も部下の評価をたずねられ「主人の悪事を見て諫言する家臣は、戦場で一番槍をついた者よりもはるかに立派である」と答えたそうです。
諫言は現代の日本社会においても、なかなか受け入れられませんが、諫言を忌憚なく受け入れる度量を持っているのが名君の必要条件だと思います。
現代でも、ある副知事経験者が「知事が間違った判断をしたときに注意や助言を恐れずにできる役割が副知事にある、それができなければ副知事がいらない、秘書とは違うと」といっています。
児玉源太郎の懐刀
冒頭にあげた懐刀はあまり使われていませんが、私にとっては懐刀が最もインパクトがあります。
5年前に100歳で亡くなった義母が「お祖父さんの中川米吉は児玉源太郎大将の懐刀だった」といっていたのが記憶に残っているからです。
懐刀は「智謀にたけ、秘密の相談や計画などにあずかる信頼のおける部下や側近」と辞書に記されている。
また、他には「いわゆる黒子型補佐役の総称。ふつう外部にその存在を知られることなく、影の補佐役として活躍することで、その本領を発揮する。トップの腹心ともいわれる」と定義している文章にも出あいました。
中川米吉は後者に近い懐刀だと思っています。米吉の名は児玉大将のように知られていません。無名の一般市民で生涯を終わっています。
児玉大将は日露戦争勝利の立役者
日露戦争で、児玉源太郎大将は参謀本部長大山巌元帥の下、参謀本部次長として、指揮をとり、不利といわれていた日露戦争で日本を勝利に導いた大立役者として讃えられています。
児玉大将はドイツのメッケル参謀少佐から軍事学の講義を受けた際、メッケル少佐を、一を説けば、連想を十も二十も働かせる天才的な頭脳の持ち主と驚嘆させました。また、作戦家であり、国家運営能力、経綸の才にとみ、政治的能力が同時代のだれよりも優れていたといわれていました。
大山元帥は部下を信頼して任せるタイプで、児玉大将の才能を思う存分発揮させたことが、日露戦争勝利に導いたといわれています。
児玉大将は日露戦争が終わった翌年の1906年(明治39年)に参謀総長に就任、さらに南満州鉄道鉄道株式会社(満鉄)の創立委員長に就任しますが、10日後に脳溢血により、54歳で亡くなりました。
児玉大将没後の満州吉林にホテル開業
ここから先は
70歳を過ぎても青二才
私は現在74歳ですが、青臭いといわれます。個性だと思います、長所であり、短所です。この青臭さと、私だけが歩んできた73年の経験、体験をもと…
サポートお願いいたします! より良い記事を書くために、有効に使わせていただきます。がんばります!