百寿の祝宴
京都の西本願寺で妻の祖母の23回忌法要を親族、知人が参列して執り行った。その後、近くのホテルで妻の白寿のお祝いを兼ねてお斎をした。終わり際に妻の兄が「満百歳の百寿のお祝いは泊りがけで盛大に開きましょう」と参列者に提案し、賛同を得て盛り上がって終わった。
白寿は数え99歳のときにしたので、百寿は2年後。翌々年の桜が咲くころになっても、一向に義兄から百寿について、お祝いをする連絡がない。
妻に話したら、「あの人はリップサービスをよくするから、その時の出まかせよ」と百寿の会を期待していない様子。
私は義母の様子を伝えた。
「あのとき、お義母さん、うれしがっていたよ」
「そうね、百寿のお祝い、してあげた方がいいよね。でも兄に言っても、きっとしないわ。また、お前たちでしてくれよというくらいよ。一緒に住んでいる私たちがすることになるわ。あなたどうする?」
私たち夫婦で百寿の会を準備することにした。会場は出席者があまり行ったことがなく、交通の便が良く、感動するところなどの条件で検討し、比叡山の麓にある風光明媚な八瀬のホテルに決めた。
10月初旬の3連休初日の土曜日、6日がよいだろうと、ホテルの担当者と打ち合わせを始めた。義母も私たちが準備をしている様子を見て、「それまでは元気に生きていよう」と思ってか、心なしか楽しそうな雰囲気になってきて、食欲も増しているように見え始めた。
会のおおよその出席者数、会場の部屋、料理や飲料の内容、時間の設定等をホテルの担当者と話して、決めていった。送迎は叡山電鉄の八瀬比叡山口のすぐ近くなので、参加者各自で来てもらい、私たちの手間も省けるようにした。案内状の送付の用意も6月中にすませ、招待予定者の名簿を含めて、百寿の会の言い出しっぺの義兄に連絡した。
折り返し、義兄は低額の会費制を提案してきたが、赤字になった場合の補填方法を示していなかったので、私たちは通常の結婚式のように招待制にして、案内状を送付した。
出欠の返答は8月31日としたが、大半は7月中に「おめでとうございます」のお祝いの言葉を添えて、出席の返答をいただいた。返答をなかなかいただけなかった人にも催促の電話を入れたら、「もちろんお祝いに行かせてもらうわ」とうれしい返事が返ってきた。
百寿の会が近づくにしたがって、わくわく感が増してきた。何ともいえぬ幸福感に包まれていった。準備を進めていくと、結婚式のときと同じようなワクワク感があったが、幸福感はやや違った。結婚式のときは幸福感の中に未来への不安感がのぞいたが、百寿の会は満点に近い幸福感だった。その年は台風がよく来る年だったので、天候だけが不安だったが、妻の「晴れ女の私がいるから、心配いらない。台風は来ないわ」の言葉にその不安も吹き飛んでいった。
9月の敬老の日前になると、京都市と京都府の職員が相次いで、敬老の表彰状と記念品を携えて、我が家にお祝いに来訪し、百寿会気分が私の中で一層盛り上がっていくのが実感していく。
義母は90歳を過ぎてから、心臓にペースメーカーを挿入する手術を受けており、要介護であるが、寝込むこむこともほとんどなく、健常者と同じように私たち夫婦と三度の食事の食卓をともにしている。
週三回のデイサービスや月一回のショートスティを、これまでは行くのを嫌がることもあったが、7月ころからは嫌がることもなくなり、百寿の会までは「身体に気をつけて元気でいよう」という意欲が感じられ、私たちの手間や心配をかけさせないように見えた。
2018年(平成30年)は台風の当り年で、毎週のように台風が到来して、百寿の会当日の10月6日もやや心配はしたが、お天道様が私たちの準備をむだにして、雨にするわけがない、また晴れ女の妻もいるという変な自信があった。曇りながらも、誰も雨にたたられずに、会場のホテルに参加予定の40人が参集した。
会場には義母の母親と姉弟3人の写真と総理大臣からの賞状が見守り、会は進んでいった。義母は満洲生まれで、京都が新婚旅行先だった。「結婚式を二回しているみたいで、私は幸せだ」とつぶやいた。百寿の会参加者が知らない若き日の結婚式がよみがえったのだろう。
結婚式と違って、式次第も決めず、参加者が前に出て、お祝いをのべていく。参加者同士、義母を交えてあれこれ話に花が咲き、懐石料理が運ばれる。窓ガラスの外は庭園の新緑が映え、義母を祝福してくれている。
一幅の絵画、映画のシーンが流れていく感じがした。
誕生を喜び、見守ってくれた人生の先輩たちはすべていなくなっている。百年、一世紀のときが流れ、誕生以降に生まれた、人生の後輩たちが長寿を祝ってくれる。義母はそんなことを話しながら料理を楽しむ。
ギターを抱えた初老の男性が弾き語りをして、一体感をかもし出し、海外に住む親せきの若者からは、恋人のアメリカ人女性とともに「お祖母ちゃん、百歳おめでとうございます」とビデオレターが披露される。
そして義母を囲んでの記念写真、義母に人生最後のにぎやかな、幸福感あふれる二時間半の祝宴は40人の参加者全員に百寿の素晴らしさを伝えてくれた。
義兄からの白寿の会開催の連絡がなかったので、街のレストランで、私たち家族だけで、ささやかな百寿のお祝いをする案も考えたが、ホテルでの盛大な会にして、親族、友人、知人40人が笑顔で、母の百寿をお祝いしてもらい、義母や私たち夫婦、みんなの思い出に、言葉では表現できない宝物を残してくれた気がする。
追記: 義母は翌年の2019年3月30日、心不全で旅立った。葬儀の4月1日、式場の控室にあったテレビから新元号が「令和」と発表されていた。大正、昭和、平成を生きた100歳10ヵ月余りの人生を閉じた。