【治承~文治の内乱 vol.28】 結城浜の戦い
結城浜の戦い(『源平闘諍録』より)
治承4年(1180年)9月4日。右兵衛佐頼朝は白旗をはためかせて5000余騎の軍勢を率いて上総国から下総国へと向かいました。この時、上総権介広常は頼朝の前に跪いて、
「君(頼朝)は挙兵以来の戦で疲れていらっしゃいます上、兵達も歩みが遅くなりがちです。そこで新手である我らの1000余騎の軍勢でもって、この広常、先陣を務めさせていただきたく存じます」
すると、傍らにいた千葉介常胤は、
「権介(広常)の申すこと、まったく正当な理由がありません。他国のことならいざ知らず、下総国においては他人の勝手にされるようなことはあってはならないと存じます。ここはこの常胤が先陣を務めまする」
こうして常胤は子息や一族の者300騎の軍勢を率いて先陣を務め、頼朝一行は下総国へと向かったのでした。
さて、平家に味方する千田の判官代・藤原親政は、右兵衛佐(頼朝)の謀叛を聞いて、
「この私は下総国にいながら、頼朝に一矢も報わないようでは、何の役にも立たないということになる。京都への聞こえも悪かろうし、わが身の恥でもある」
と、赤旗をひるがえして白馬に乗り、匝瑳郡北条にある内山館(千葉県匝瑳市内山)から1000余騎の軍勢を率いて、武射の横路(千葉県山武市成東地区)を越え、白井の馬渡(千葉県佐倉市馬渡)の橋を渡って千葉の結城(千葉市中央区)へと向かいました。
一方、千葉庄では千葉成胤(加曾利成胤とも)が、祖父の常胤や父の胤正ら一族の者がこぞって上総国にいる頼朝のもとへ向かっていってしまっている中、一人留守を任されていました(※1)。
すると、藤原親政が襲来し、結城の浜に現れたとの報せが成胤のもとに入りました。成胤はただちに上総国にいる祖父や父らに使者を遣わして事態の急変を知らせるとともに、成胤自身は、
「ここは祖父や父の帰りを待つべきだろうが、敵を目の前にして駆け出さないでは、われ人にあらず。どうしてこれが勇士の取る道であろうか」
と、にわかに7騎を率いて、1000余騎の軍勢に立ち向かっていったのです。
成胤は1000余騎の敵勢を前に、
「柏原の天皇(桓武天皇)の後胤、平親王将門からは10代のちの子孫、千葉の小太郎成胤、生年17歳になる」
と名乗りをあげた後、敵勢の中を縦横無尽に駆け散らして、敵を打ち払っていきました。しかし、親政の軍勢は多勢であり、わずか7騎の成胤勢は次第に上総・下総の国境である堺河(村田川)付近まで追い詰められました。ところが、成胤をはじめ、その手勢が敵の放つ矢に当るようなことはありませんでした。それというのもおかっぱ頭の童が敵の放つ矢をことごとく空中で受け取り、敵の攻撃をことごとく受け付けさせなかったのです。
そうこうして成胤たちが敵勢の攻勢を凌いでいると、やがて祖父・千葉常胤や上総権介・上総広常が率いる軍勢が雲霞のごとく駆けつけてきました。上総広常は、孤軍奮闘する成胤を見て、
「あれは何ということだ?初陣の門出には祝い事をもってするべきであろうに。千葉の小太郎が無勢で多勢に挑むとは…。道理に外れておる」
と言うや否や、自ら先頭に立って駆け出そうとしました。
これを見た成胤も急いで馬首を引き返し、
「上総介め、悪く言うものである。父祖ともに上総へ参り、成胤だけが一人残り留まったからには、みすみす敵に先祖代々の所領を踏み荒らされるわけにはいかないではないか」
と、再び先陣に立って敵めがけて駆け出していきました。
そんな成胤を見て、多部田胤信、国分胤通、千葉胤頼といった成胤の叔父たちや、成胤の従兄弟・武石胤重、成胤の弟になる境常秀が駆け出し、それに上総軍の臼井重常・久常兄弟、天羽秀常、金田康常、匝瑳助常、佐是の四郎禅師といった面々が打って出ました。
一方、藤原親政軍の原平次(常朝)・原五郎(清常)兄弟は互いに競うかのように敵前へ出て、命の続く限りと懸命に戦いました。すると、もう一人の弟である六郎(常直)の乗っている馬が射倒されました。馬から投げ出された格好となった六郎もかねてより負傷しており、太刀を杖がわりにして立つのがやっとでした。
平次と五郎はそんな弟を見て、すぐに駆け寄り、五郎の馬に六郎をなんとか乗せようとしましたが、六郎は重傷を負っていて、もはや意識もなくなりかけた状態であったため、うまく馬に乗せることができません。
そんな中、敵は徐々に迫って来ていました。六郎は、
「われ助かるとは思えぬ。敵はすでに近づいてきている。はやく兄上たちはここを去ってくだされ…」
もはやどうすることもできない平次と五郎は、そういう弟を置き去りに戦線を離脱しました。親政の軍は他に粟飯原元常が兜の手辺の穴を射られて討死したといいます。
親政の軍は入れ代わり立ち代わり敵勢に当って奮戦したものの、もはや圧倒的劣勢に陥ってしまった戦線を維持することはかなわず、やむなく千田庄次浦の館(千葉県香取郡多古町次浦)へと退却したのでした。
この結城浜の戦いは色々と不思議な部分がありますが、まず千葉成胤がわずか7騎で出陣したという点。この「7」という数字は、千葉氏が信仰していた“妙見信仰”に基づくもので、この妙見信仰というのは北斗七星を崇める信仰であったために「7」という数字が重要な数字(聖数)とされていたようです。
次に、成胤が下総・上総国境の境河(村田川)まで追い詰められた時、突然登場した童が神業を見せていたという点。これはこの童こそが妙見菩薩の化身であり、成胤は妙見菩薩に護られた人物であることを強調するために作られた話と思われます。
このように成胤を妙見信仰に結び付ける背景としては、『源平闘諍録』が編纂された鎌倉中期~南北朝時代にかけての千葉氏は、宝治合戦で大打撃を受けて以来、嫡流の存続も危ぶまれるような危機的な状況に陥っていたことが挙げられます。つまり、千葉氏嫡流の祖である成胤と千葉氏一族の精神的主柱となっていた妙見信仰を結びつけることによって、改めて嫡流を盛り立てて一族の結束を促そうとしたのものではないかと考えられているのです。
広常の遅参はなかった?
『源平闘諍録』に記される結城浜の戦いを読むと『吾妻鏡』や他の『平家物語』に記される様子と違う点があることに気づきます。
その最も違う点は上総広常がすでに頼朝や千葉常胤ら千葉一族と合流しており、ともに戦っていることです。『吾妻鏡』や他の『平家物語』では、頼朝たちが下総国府にまで到着してから上総広常は参上してきたはずですが、そうではなく、上総広常の“遅参”はなかったことになっているのです。
前回お話しした慈円の『愚管抄』には頼朝が上総広常のもとへ向かったことをうかがわせる記述があり、『源平盛衰記』の「佐殿・大場勢汰(勢揃)への事」にも、挙兵する前の頼朝が味方を募るために、藤九郎盛長(安達盛長)を使者として千葉常胤や上総広常のもとへ遣わした際、常胤はすぐには返事をせずに上総広常と相談した上で態度を決めると述べたのに対し、上総広常はすんなり頼朝に同調する姿勢をみせたという話(次節参照)があって、『吾妻鏡』の記述と異なっています。
前回もお話しした通り、当時の千葉氏と上総氏の力関係を見れば、房総半島に大きな影響力を及ぼしたのは上総広常の方であり、千葉常胤が上総広常の動向を気にする方が自然のように思われるのです。
頼朝挙兵の呼びかけに対する千葉常胤と上総広常(『源平盛衰記』より)
『源平盛衰記』の「佐殿・大場勢汰(勢揃)への事」にはこんな話があります。場面はまだ頼朝が挙兵する前、腹心の藤九郎盛長(安達盛長)が坂東の武士へ頼朝に味方するように各地を回っていた時のことです。
藤九郎盛長(安達盛長)は、下総国へ入って千葉介(常胤)に頼朝へ味方するよう触れました。
千葉介(常胤)は、盛長が持参した平家を討伐すべき旨を記した院宣(上皇・法皇の命令書)の案文や御教書(皇族〔法皇・上皇・天皇・親王以外〕または三位以上の公卿が出す命令書)を開いて見、
「この事、上総介(上総広常)に相談し、それからお返事申し上げる」
とだけ言って、この時は返答をせずに盛長を返しました。
千葉介(常胤)の嫡子・千葉小太郎(成胤)は生年17になりますが、ちょうど鷹狩からの帰り道で、千葉館から出てきた盛長と行き合いました。小太郎が盛長に、
「いかがであった?」
と聞くと、盛長は常胤の様子や反応をしかじかと話しました。
すると、小太郎は祖父であり、養父でもあった常胤の態度に納得がいかない様子で、盛長を連れだって館へと向かい、常胤に談判しました。
「恐れながら申し上げますが、これは院宣と御教書でございますぞ。それなのに、先ほどの盛長の呼びかけに参上すると申されぬとは。その上、上総介に従うようなお立場ではございますまい。彼が参れば参る、参らねば参らぬということなのでございますか!?まったくもって彼の下知に従う必要はないではないですか。ただただ、急ぎ参上するとお返事申し上げなされませ」
常胤は小太郎を大変賢い者よと感心しつつ、言うことは確かにもっともだとして、頼朝の許に参上する旨、盛長へ伝えました。
盛長はその後、上総介(上総広常)の許へも赴き、頼朝勢への参加を呼び掛けました。すると、広常は、
「生きてこの事を承るとは。わが身の幸いではないか。忠義を表し、名を後世に留めること、まさにこの時にあり」
と、喜んで参加を表明したのでした。
おわりに
以上の事柄から推測すると、この頼朝の房総入りは、まず頼朝が安房に上陸して、上総国で広常と合流。下総から千葉氏一族が上総国まで迎えにやってきて、総勢で下総国入りということだったのかもしれません。
ちなみに、この頼朝・上総・千葉連合軍は、下総国へ向かう途中に上総国目代を襲撃して討ち果たし、上総国府を制圧したようです。この時上総国目代だったのが平重国という人物といわれています。
平重国は平重盛(小松内府)の家人で、高倉院の武者所にも仕えたことがあるという経歴を持った者で、治承3年の政変(1179年)で同族(伊勢藤原氏)の藤原忠清(伊藤忠清)が上総介となった際に、目代として現地へ下向したとされています。なお、この重国の子息が華厳宗の中興とされ、日本の仏教史において重要人物となる明恵です。