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【甲斐源氏 vol.3】 甲斐源氏発展のきっかけ

馬の産地だった甲斐国

流罪に処されたとはいえ、新天地の甲斐国へやってきた格好になった源義清みなもとのよしきよ清光きよみつの父子は、この甲斐国に根を下ろして勢力を拡げようとしていましたが、勢力拡大のために目をつけたのが、甲斐国での馬の生産でした。

甲斐国は古くから名馬の産地として知られ、古墳時代(5世紀後半)の倭王わおう雄略天皇ゆうりゃくてんのうに比定されます)の時にはすでに“甲斐の黒駒”という名が『日本書紀』に記されるほどになっていました。

甲斐国には官営の牧場(官牧かんぼく)が多く営まれて、奈良時代や平安時代前半には定期的に朝廷に馬が納められていました。そんな中、名前の知られる牧がいくつかあります。
ちょっとわかりづらいかもしれませんが、せっかくなのでご紹介します。

奈良時代の末ごろにはこの3つの勅旨牧ちょくしまき(国司に管理され皇室の馬を飼育する牧場)が知られています。

柏前牧かしわざきのまき
今の北杜市ほくとし高根町たかねちょう清里きよさと念場原ねんばはら付近にあったとされていますが、諸説あり比定される場所は確定していません。

真衣野牧まきののまき
巨麻郡真衣郷こまぐんまきのごうの地で、今の北杜市武川町むかわちょう牧原まぎのはら付近にあったとされています。戦国時代には甲斐武田氏傘下の武士団・武川衆むかわしゅうの本拠地でもあった場所です。

穂坂牧ほさかのまき
今の韮崎市にらさきし穂坂町ほさかまち付近にあったとされます。

そしてこの3つの勅旨牧のほかにもいくつか準官牧や私牧が存在していました。

小笠原牧おがさわらのまき
今の北杜市ほくとし明野町あけのちょう小笠原おがさはら付近にあり、穂坂牧に隣接していたとされています。この牧は紀貫之きのつらゆき(?~946年)の和歌にも詠まれる牧です。

“都まて なつけてひくは をかさ原 へみ(逸見)の御牧の 駒にや有らん”

逸見牧へみのまき
今の北杜市高根町・須玉町すたまちょう付近にあったとされます。この牧も先ほど載せた紀貫之の和歌にもありましたが、様々な方が詠まれています。

藤原道綱ふじわらのみちつなの母 『かげろふ日記』
天徳てんとく2年(958年)の頃として夫・兼家かねいえ長歌ちょうかを載せており、その中に、

‟~かひなきことは かひのくに へみのみまきに あるる馬を いかでか人は かけとめんと おもふものから~”

という部分があります。さらに、

藤原基俊ふじわらのもととし 『堀河院百首』

“なつくとも いかがとるべき 草わかみ みつ(へみ)の御牧に あるる春駒”

これらの歌から推測するに、どうやら小笠原牧逸見牧からの馬は、気性が荒い馬の代名詞となっていたようです。

石間牧いわまのまき
今の西八代郡にしやつしろぐん市川三郷町いちかわみさとちょう岩間(旧・西八代郡六郷町ろくごうちょう岩間)にあったとされます。
保元の乱で敗死した藤原頼長ふじわらのよりなが悪左府あくさふ)から没収した所領の中にこの牧の名前を見ることができます(『兵範記』保元2年3月29日条)。

ということで、以上6つの牧をご紹介しましたが、地図上に表すとこのような分布になります。

緑色で表示されているのが、だいたいの牧があった場所をしめしています。この分布を見れば一目瞭然ですが、甲府盆地の北西部に集中しているのがわかります。

この地域は須玉川すだまがわをはじめとする釜無川かまなしがわの支流がいくつも扇状地を形成していて、牧畜には最適な環境が整っていました。


甲斐国北西部に進出した源義清・清光

冒頭でもお話ししましたが、源義清と清光父子はこの馬の産地に目を付けました。そして甲府盆地北西部に進出したのです。

馬は当時多くの需要があり、かつ貴重なものでした。彼らはここら一帯の馬の生産地を押さえてしまえば相当な力を蓄えることができるはずだと考えたのです。

現在義清と清光がこのどこに拠点を置いたのか定かではありませんが、伝承では若神子わかみこ(山梨県北杜市須玉町若神子)もしくは谷戸やと(山梨県北杜市大泉町谷戸)に置いたと考えられています。

こちらは山梨県北杜市須玉町若神子にある正覚寺しょうがくじという現在は曹洞宗の寺です。松平定能まつだいらさだまさによって江戸時代後期に編纂された甲斐国の地誌『甲斐国志』は、この寺の寺伝として、義清がこの村(蔵原村くらばらむら)に住んだ時、父・義光(新羅三郎)の菩提を弔うために建てた寺と記しています。

つまり、このあたりに義清は居館を構えたということになるのですが、その痕跡を示すものは今はありません。ただ、この寺の裏山中腹には義光・義清の供養塔が建っています。

余談ですが、この正覚寺裏山には徳川氏と小田原北条氏が戦った天正壬午てんしょうじんごの乱の際に、北条氏直ほうじょううじなおが築いたとされる若神子城(北城)の遺構があります。

谷戸城二の曲輪北から東へかけての土塁と内堀

一方、こちらは北杜市大泉町谷戸にある谷戸城址です。

この写真は谷戸城の二の曲輪とその内堀・土塁になります。いずれこの城は改めてガッツリご紹介しようと思いますが、ここは清光の居城とされる城です。

しかし、ここも山梨県の郷土史を研究されている方々が谷戸城に関する諸説を出されておりますが、ここに清光が拠点を置いたことが確証できる決定的なものはありません。

ただこの谷戸城の南、直線距離にして2.7kmほどのところに曹洞宗の清光寺せいこうじというお寺があり、そこに清光の墓とされるものがあります。

『甲斐国志』によれば、清光が仁安にんあん3年(1167年)6月8日に谷戸城にて59歳の生涯を終えると、逸見郷へみのごう大八田おおばった(今の北杜市長坂町ながさかちょう大八田)に葬られて真言道場を建てたが、その道場がこの清光寺であると記しています。

なお、この谷戸城や清光寺がある地域は八ヶ岳の南麓にあり、この地域では清光に関する伝承があちこちに伝わるそうです。

このように八ヶ岳南麓地域には、少ないながらも清光の遺跡があり、伝承も伝わっていることも考えると、この地域に清光は本拠を構えたことがうかがえそうです。


甲斐国の一勢力だった甲斐源氏

さて、こうして源義清と清光父子は甲府盆地北西部へと進出して着々とその勢力を伸ばし、徐々に経済力を持つようになっていきましたが、まだ甲斐国中心部の甲斐国府周辺には勢力が及ばず、国府周辺では古代豪族の流れを汲む三枝氏さいぐさしなどが幅を利かせていました。

またこの頃、保元ほうげんの乱(1156年)と平治へいじの乱(1159年)という2つの乱が京都で起こりましたが、これらの乱に甲斐源氏の諸氏は参加していなかったようです。
甲斐源氏がこの乱に直接関係ない都の勢力と結びついていたか、当時はまだ十分に都とのコネクションを得ていなかった可能性も考えられますが、甲斐国や近隣の信濃国からも参戦したとみられる武士もいる中で、なぜ甲斐源氏から乱に参加する者がいなかったのかは定かではありません。

いずれにせよ、この頃の甲斐源氏はまだ発展途上で、甲斐国のしがない一勢力程度の規模だったのかもしれません。

ところが、この2つの兵乱のすぐあとに甲斐源氏を飛躍的に発展させる契機となった事件がおこります。


ということで、今回はここまでです。次回はその事件と甲斐源氏の飛躍の話をしたいと思います。
それでは今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

(参考)
山梨県 『山梨県史 通史編2 中世』 山梨日日新聞社 2007年
磯貝正義 『甲斐源氏と武田信玄』 岩田書院 2002年
芝辻俊六 『甲斐武田一族』 新人物往来社 2005年
八巻與志夫 「若神子城」「谷戸城」
(湯本軍一・磯貝正義編 『日本城郭大系 第8巻 長野・山梨』 所収) 新人物往来社 1980年
松平定能 『甲斐国志』巻之四十七
(復刻版 松平定能 『甲斐国志 上』 甲陽図書刊行会 1911年)
松平定能 『甲斐国志』巻之八十三・巻之九十四
(復刻版 松平定能 『甲斐国志 下』 甲陽図書刊行会 1912年)

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およまる
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