【鎌倉党 vol.5】 鎌倉党の終焉
大庭景義と梶原景時
大庭景親亡きあとの鎌倉党は武士団としての結束力はほぼ喪失していたと思われますが、勢力はまだ温存されていました。
そして、その代表格となったのが大庭(懐島)景義と梶原景時の両名です。
彼らについては、また別の機会に個々に取り上げて詳しくお話ししたく思いますが、簡単にご紹介させていただきますと・・・。
まず、大庭景義から。
彼は当初から頼朝に味方し、大庭景親亡きあとは大庭氏の家督と大庭御厨の下司(庄園管理者)を引き継いだようです(念願の?)。ただ、大庭景義は身体が不自由であったこともあって、頼朝を主に内政面で支え、頼朝の御所や鶴岡八幡宮の普請などに力を尽くしました。
『吾妻鏡』には頼朝が奥州藤原氏を討伐しようとする際に、討伐せよとの後白河法皇の院宣が得られず、朝廷からの許しも出なくて、なかなか決断できずにいたところ、景義が「軍中においては将軍の命令に従い、天子の詔を聞かず」と進言して出陣を促した話(『吾妻鏡』文治1年〔1185年〕6月30日条)や頼朝はじめ錚々たる御家人たちとの酒宴の席で、自身が生涯の傷を負うことになった保元の乱での白河殿攻撃で鎮西八郎(源為朝:頼朝の叔父)の矢をかろうじてかわした時に得た教訓を話し、その席に居た者たちがみな感心したという話(『吾妻鏡』建久2年〔1191年〕8月1日条)などが記されており、こうしたことから大庭景義は頼朝をはじめ後身の武士たちに古老として重んじられていた様子がうかがえます。
そして、梶原景時です。
この方は「判官びいき」のおかげで義経のいじめ役という感じで記憶されていらっしゃる方も多いのではないでしょうか…。
でも、この方は違う見方をしてみたりすると、またちょっと印象が変わる方でして、今回は話のテーマが鎌倉党なので詳しくはお話ししませんが、鎌倉前期の武士の中では個人的にかなり興味深い人物でもあります。
さて、そんな彼をザックリ説明しますと、石橋山の戦いの際には大庭景親に味方して頼朝に敵対した武士でしたが、治承4年(1180年)の冬頃に土肥実平の仲介で頼朝に仕えることになり、以後は持ち前の教養もあって、一気に頼朝の信任を得て、その側近として頭角を現し、鎌倉政権では侍所(※1)の所司(侍所の副官、※2)としての務めを果たしました。
このように、鎌倉党を代表するこの2名は鎌倉政権中枢で活躍する人物として重要なポジションにいました。しかし、こうした状況もあんまり長くは続きませんでした。なぜなら鎌倉初頭に繰り広げられた御家人同士の権力闘争にこの両名も巻き込まれていったからです。
大庭景義の引退
まずつまづいたのは大庭景義です。
『吾妻鏡』の建久4年(1193年)8月24日にこんな記事があります。
24日戊午。大庭平太景義・岡崎四郎義実らが出家した。特に思うところがあったわけではないが、それぞれ高齢で衰えたためにお許しを得て、かねてよりの願いを果たしたという
これは大庭景義と岡崎義実が高齢を理由に出家したということなんですが、どうもこの時何かあって両名は出家させられたようなのです。
『吾妻鏡』はここで“殊に所存なし”なんて記していますが、このあとの記事で“わけあり”だったことがうかがわれます。その記事は建久6年(1195年)2月9日の記事になります。
”9日乙丑。大庭平太景義入道が申文(上申書)を捧げ、これには「義兵を挙げられた最初から大功をあげてきましたところ、あらぬ疑いをかけられ鎌倉中から追放させられた後、悲しみと憂いを抱きながらすでに三年の月日が流れました。今や余命いくばくもなく後年に期待することは難しいです。早くお許しをいただき、今度の(頼朝の)上洛の御供に加えていただき、老後の名誉にしたく思います」という趣旨が記されていた。これにより(頼朝は)すぐに景義を許され、そればかりか上洛の供をしてよい旨を仰せになられたという。
つまり大庭景義は3ヶ年鎌倉を追放されていて、追放された時期は出家した頃ということなります。
この景義が出家した建久4年(1193年)という年は富士の巻狩りの際に起こった”曾我の仇討ち”事件があり、その後源範頼に謀反の嫌疑がかけられるなど、鎌倉がピリピリとした空気に包まれた年にあたります。その辺のことを踏まえると、大庭景義も岡崎義実も何らかの責任を取らされた可能性があるとも考えることができます。
ともあれ、この景義の願いは聞き届けられ、頼朝の許しを得てともに上洛(頼朝2回目の上洛)をし、南都(奈良)の東大寺落慶法要や大仏開眼供養などの行事に参列しました。
しかし、これを最後に景義が晴れがましい表舞台に立つことはもうありませんでした。こののち『吾妻鏡』に彼の名前が登場するのは建仁1年(1201年)3月10日に鎌倉で起こった火災で景義の旧宅が焼失したことと、承元4年(1210年)4月9日に相模国において死去したことを伝える短い記事のみです。おそらく、この上洛を最後に完全に引退し、本拠地である懐島郷(神奈川県茅ヶ崎市円蔵・浜之郷付近)にて余生を過ごし、ひっそりと亡くなられたのでしょう。
梶原景時の失脚
さて、一方の梶原景時です。
彼は侍所の所司、もしくは別当として政権の重要ポストに就き、その権勢も当然かなり大きなものがありました。大庭景義と違ってこちらはまさに順風満帆といった状況でした。
しかし、そんな状況も頼朝が存命のうちだけだったのです。そもそも梶原景時が鎌倉政権で重要ポストに就けていたのは、ひとえに源頼朝の厚い信任によるところが大きく、そんな頼朝が建久10年(1199年)1月に死去した途端に一気に雲行きが怪しくなったのです。
これからお話しする梶原景時が失脚した経緯は『吾妻鏡』によるものです。この景時の失脚に関する顛末は、他の史料を使って改めて検証しようと思いますが、それは梶原景時の紹介記事の時にしっかりお話ししようと思います。
それは正治1年(1199年)10月25日のことでした。
頼朝の寵臣だった結城朝光がふと、
「忠臣は二君に仕えずということを聞く。特に私は幕下(頼朝のこと)より厚い御恩を受けた。(頼朝が)亡くなられた際、遺言により出家遁世しなかったが、それを後悔したことは一度どころではない。それにまた今の世情を見るに、まるで薄氷を踏むようなものである」
と、頼朝を慕うあまりこのようなことを口にしました。
すると、この発言の2日後、北条政子の妹である阿波局から朝光は衝撃的なことを聞かされます。
阿波局によれば、先日の朝光の発言を重く見た梶原景時が源頼家(第2代鎌倉殿)に、朝光に叛逆の兆しありとして彼を厳しく断罪に処すべきだと言上したというのです。
これを聞いた朝光は色を失って動揺しました。そんなつもりで言ったわけではないのに…。
そこで朝光は親友である三浦義村(三浦義澄の子)の屋敷へ向かい、相談しました。
事情を聞いた義村は朝光に、
「事はすでに大事に及んでいる。特別な計略がなければその災いから逃れることはできないぞ。だいたい文治(1185年~1190年)以降、景時の讒言によって命を落とした者や職を失った者は数えきれない。先日安達景盛(藤九郎盛長〔安達盛長〕の子)も誅されかけたが、あれも景時の讒言が発端だ。このような悪事の恨みは景時だけでなく、ひいては羽林(頼家のこと)の身の上にふりかかることにもなる。世のため君(頼家)のためにも景時を退治しなければ。とは言え、弓矢にて勝負を決するのはまた我が国に争乱を招く火種にもなる。このことは当然宿老たちにも相談するべきだ」
と、鎌倉政権の宿老たちにも景時退治の相談をするべきだと助言し、早速使者を送って和田義盛と藤九郎盛長(安達盛長)の両名を招きました。
事情を知った両名は言います。
「早く賛同してくれる者を集って連名の訴状(弾劾状)を作成し、訴えようではないか。その上で、あの讒言する者一人を賞されるのか、われら御家人を召し使われるのか、まずは(頼家の)ご意向を伺い、それが裁許されない時は直に生死を争うべきだ」
そこで景時に遺恨があり、文筆の才がある中原仲業に訴状(弾劾状)の作成を依頼。仲業は喜び勇んで訴状を書き上げました。
そして、翌10月28日。この日鶴岡八幡宮の廻廊には錚々たる顔ぶれの御家人が集結していました。その数なんと66名。彼らはみな梶原景時の弾劾に賛同する者たちで、仲業の作成した弾劾状に署名、花押(サイン)を据えた上で、景時糾弾の一味同心を改めないことを八幡神に誓ったのです。
(余談ですが、この時、長沼宗政だけ花押を据えなかったそうです…)
この66名の御家人には、和田義盛や藤九郎盛長(安達盛長)だけでなく、三浦義澄や千葉常胤、小山朝政、宇都宮頼綱、二階堂行光、比企能員、畠山重忠などといった鎌倉政権の屋台骨を支える有力御家人までもが含まれていました。
こうして景時の弾劾状は完成し、頼家に見てもらうために和田義盛と三浦義村が代表となって大江広元のもとへ持っていき、託しました。
しかし、その後しばらくしても何の動きもありませんでした。
そんな中、和田義盛は鎌倉殿の御所で大江広元に会いました。
広元は弾劾状を受け取ったものの、心中では景時を頼朝存命の時にはともに親しく仕事をした仲間であり、今あれよという間に罪に問われるのが不憫でならないと思い、頼家へまだ見せていなかったのです。
和田義盛は広元を見るなり早速例の弾劾状について尋ねます。
「訴状は披露されたのか?して、(頼家の)ご意向はいかがであるか」
広元はまだ提出していないと言うと、義盛はいよいよ目をむき出しにして広元に詰め寄ります。
「あなたは関東の爪牙・耳目として長年務めてこられた。それを景時一身の権威を恐れて、みなの憤りを放っておくのは公平ではないではないか」
広元は答えます。
「恐れているからでは全くない。ただ景時の滅亡を気の毒に思い、人材を惜しいと思って心が痛むのだ」
さらに義盛は、
「恐れているのではないのなら、どうしてこうも日数が経っているのだ!(訴状を)披露されるおつもりなのか、そうでないのか、今ここではっきり返答を承りたい!!」
もうほとんど義盛は広元を叱りつけるような姿勢で問いただしたのです。これには広元も披露する旨を伝えるほかありませんでした。
そして11月12日。大江広元は頼家に訴状(弾劾状)を見せました。そして頼家はこの弾劾状を景時に送ってその是非を申し述べるようにと言い、まずは景時に弁明の機会を与えました。
しかし、景時は結局弁明しませんでした。そればかりか一族や親類を伴って所領である相模国の一宮(神奈川県高座郡寒川町)に引き上げてしまったのです。ただ景時の三男である景茂はしばらく鎌倉に留まりました。
12月9日。景時は一旦鎌倉へ戻りました。これは改めて景時の罪について裁きを行うためだったとみられ、連日審議が行われたようです。
しかし、12月18日。結局は有罪として景時の鎌倉追放が決定され、三浦義村と和田義盛が処罰の奉行となりました。景時自身は相模国一宮に再び退去し、鎌倉にある景時の邸宅はやがて破却されて、使える資材は永福寺の僧坊にと寄進されました。これにより景時は完全に失脚したのです。
ところが、これで話は終わりませんでした。
年が明けて正治2年(1200年)1月20日辰の刻(朝7時~9時)。原宗三郎という者が鎌倉へ急使を遣わしてきました。その急使が言うことには、なんでも梶原景時ら梶原氏一族が近頃相模国一宮の所領に城郭を構え防戦の用意をしていたが、昨夜丑の刻(深夜1時~3時)に謀叛を企てて上洛の途についたというのです。
これを受けて北条時政・大江広元・三善康信らは御所で対応を協議し、直ちに梶原討伐の軍勢を派遣することを決定しました。軍勢は三浦義村・比企兵衛尉(詳細不明。比企能員の長男?)・糟谷有季・工藤行光を将とする陣容です。
一方、梶原氏一行は20日の亥の刻(21:00~23:00)、駿河国清見関(静岡市清水区)に到着しました。
すると、的矢を興じるために集っていた近隣の武士たちがちょうど退散する時となって、途中で景時一行と出会いました。そこで彼らは景時一行を怪しみ、矢を射懸けてきたのです。
景時らは狐ヶ崎まで逃げ、そこで反転して応戦、彼らのうち二人ほどを討ち取りましたが、そこへ吉香(吉川)小次郎をはじめとする4名の者が在地の武士らに加勢し、吉香は梶原景茂と互いに名乗り合って戦い相討ちとなったほか、六郎景国・七郎景宗・八郎景則・九郎景連の梶原四兄弟が轡を並べて一斉に矢を放つなどして奮戦したため、両勢とも一歩も引かず勝負はなかなかつきませんでした。
しかし、そこへ次第に駿河国の御家人等が競うように馳せ集ってきたために梶原は劣勢となり、梶原四兄弟は討ち取られ、景時・嫡子の景季・その弟で次男の景高らは背後の山(現在の梶原山)に退いて戦いましたが、もはや多勢に無勢。景時以下三名はそこで最期を遂げました。
とは言え、景時らは骸のみをさらすだけで首はありませんでした。
そして、翌日になってようやく山中から頸が探し出されました。きっと梶原の何者かが頸を渡すまいと隠したのでしょう。こうして梶原景時とその子息らは滅亡したのです。
この梶原景時の駿河国での最後の戦いについて『吾妻鏡』は一見、地元の武士との偶発的に起こった小競り合いを装っておきながら、次々に武士が加勢に来たり、駿河国の御家人が現場に競い集ったりなど色々不可解な点があり、またなぜ景時が上洛をしようとしたのか、そもそもこの「梶原景時の乱」と呼ばれる一連の事件はなぜ起こったのかなどありますが、この辺の話もまた梶原景時個人を取りあげた時にお話しさせていただきたいと思います。
鎌倉党の終焉
ともあれ、大庭景親亡き後の鎌倉党の二本柱であった大庭景義と梶原景時はこのように鎌倉初期の政争の中で消えていきました。
しかし、これで鎌倉党が終わったわけではありません。まだ鎌倉党の中心的存在の大庭氏の家督も大庭景義の嫡子である大庭景兼が継ぎ、梶原氏も景時の弟である朝景(友景とも)が健在でした。梶原朝景は兄・景時と行動をともにしてはいませんでしたが、景時討伐後に北条時政の邸宅に参上して降伏、武具を献上して難を遁れていたのです。
ただし、この頃の鎌倉党にはもはや従来のような勢力はありませんでした。梶原景時の一件があって以来、景時父子の所領は没収されて他の者に分け与えられていたと思われますし、大庭景兼も『吾妻鏡』にほとんど登場していないところを見ると、政権中枢で活躍するような有力御家人ではなく、単なる相模の一御家人に甘んじていた可能性が高いと思われます。
こうして、かろうじて命脈を保った鎌倉党ではありましたが、その命脈が絶たれるのにさほど時間はかかりませんでした。
その命脈が絶たれる事件となったのが、建暦3年(1213年)5月の和田義盛の乱です。
この和田義盛の乱で義盛に加担した武士たちを見てみると、大庭景兼、梶原朝景をはじめ、朝景の息子である太郎(『吾妻鏡』のこの部分では諱不明。一説に景貞)、次郎景衡、小次郎(景衡の子?)、三郎景盛、七郎景氏、深沢三郎景家、村岡五郎などといった鎌倉党の者と思われる武士が多数いることがわかり、みな討ち取られたり、生け捕りにされました(『吾妻鏡』建暦3年5月2日および5月6日条)。
これによって、かつて坂東で有力な武士団の一つとして数えられた鎌倉党は事実上消滅したのです。また、鎌倉党の根本的な庄園である大庭御厨の下司職も乱後に三浦氏の手に渡ってしまいました。
もちろんその後も大庭氏や梶原氏をはじめ鎌倉党の諸氏の子孫が残りますが、もうかつての勢いを取り戻すことはありませんでした。
なお、これは余談ですが、この和田義盛の乱では相模国の代表的な武士である渋谷氏や海老名氏、波多野氏、土肥氏、岡崎氏、土屋氏、横山氏なども鎌倉党の諸武士と同様に反乱に加担して大きくその勢力を削がれ、南坂東の武士の勢力図が大きく変わることになりました。そう言った点からこの乱は単に和田義盛の反乱ではなくて相模国の武士の反乱で、初期の鎌倉政権においては一つの転換点だったと見ることができます。
ということで、鎌倉党の話は以上です。
この鎌倉党には鎌倉前期の重要人物などもおりますので、そんな方々の話は個人の紹介記事で改めてお話ししたいと思います。
それでは最後までお読みいただきありがとうございました。
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