【治承~文治の内乱 vol.8】 園城寺衆徒の活躍
今回から(前)(中)(後)と3回に分けて、『平家物語』の描く宇治平等院の戦いをお話ししたいと思います。参考にした『平家物語』は「延慶本」「長門本」です。
(完全な現代語訳ではありませんので、ご了承ください)
延暦寺の衆徒たちが心変わりし、もはや園城寺の勢力だけでは心許ないと感じた以仁王は、源三位入道頼政(源頼政)・伊豆守仲綱(源仲綱)・大夫判官兼綱(源兼綱)、渡辺党では競・継・与・唱、寺法師では円満院大輔・大加賀・五智院但馬・筒井浄妙明俊をはじめとする300余騎で一路南都(奈良)へ向かうことにしました。
以仁王は園城寺から宇治へ来るまでに六度も落馬しました。ここのところ全く寝ていなかったためです。そこで宇治橋を3間(約5.4m)に渡って橋板を外し、掻楯を設置して防御を固め、以仁王を宇治平等院に入れて休ませることにしました。
平家はこの事を聞いて、軍勢を派遣して以仁王を追いました。大将軍は左兵衛督平知盛、蔵人頭重衡朝臣(平重衡)、権亮少将維盛朝臣(平維盛)、小松新少将資盛朝臣(平資盛)、中宮亮通盛朝臣(平通盛)、左少将清経朝臣(平清経)、左馬頭行盛朝臣(平行盛)、三河守知度(平知度)、薩摩守忠度(平忠度)。侍では上総守忠清(藤原忠清)、同大夫尉忠綱(藤原忠綱)、飛騨守景家(藤原景家)、同判官景高(藤原景高)、河内守康綱(源康綱)、摂津判官盛経(源盛経?)。以上2万騎の軍勢です。
以仁王らが平等院にて休息しているところで、平家の軍勢が迫っている情報が入りました。そしてそのことを聞くや宇治川の向こう岸を見てみれば、すでに雲霞のごとくおびただしい数の軍勢が大地を揺らしていたのです。
平家軍は川向こうの平等院に敵がいるのを見て、川岸に出て鬨の声を上げ、一方の三位入道(頼政)も負けじと鬨の声を上げ、これが合戦の合図となりました。そして平家軍は我先にと橋板のない宇治橋を渡り攻め寄せてきました。
以仁王方である筒井の浄妙明俊は、褐の鎧直垂に火縅の鎧を着て、五枚甲を居首に着け、重籐の弓に二十四本の高うすべ尾の矢を負い、さらに三尺五寸(約105cm)のまろまきの太刀を佩いて、得意とする薙刀を杖につき、橋の上に立ちながら、
「ものの数に入る者ではござらんが・・・。宮(以仁王)の御方に、筒井の浄妙明俊といって園城寺では有名な者である。平家の御方に、われこそと思う人がいれば、出てこい。お相手いたそう」
と名乗り出た。すると平家方の者たちは、
「明俊は良き敵。われが相手いたそう」
と橋へ殺到しました。しかし明俊は弓の名手、素早く矢をつがえることのできる者であったため、たちどころに24本のうち23本放って、23人を射伏せた。続いて得意とする薙刀を振るって19騎を斬り伏せたが、20騎目に斬りかかるところで相手の兜にからりと当たって薙刀が折れてしまったため、それを河に捨て、今度は太刀を抜いて9騎を斬り伏せたが、10騎目にうちかかるところでそれも折れてしまいました。そして最後は頼みとする腰刀を振り回し、一心不乱に死に物狂いで相手に斬りかかりました。
これを見た五智院の但馬をはじめとする園城寺の衆徒たちは、明俊を討たせてなるものかと命を惜しまず戦いました。しかし、橋桁は狭く、横をすり抜けることも容易ではなかったため、園城寺衆徒の一人、一来房は明俊の後ろに立ち、
「今はしばらく休まれよ。浄妙房。この一来が進んで合戦いたす」
というと、明俊もそれを了解しました。すると一来は、
「ご無礼いたす」
と明俊を飛び越えたのです。これを見た者は敵も味方も一来の身軽さに感嘆しないものはいませんでした。一来は普通の人より背が低く華奢であったが、肝っ玉の太さは万人に優れていました。そうであるため甲冑をつけ、弓矢を背負い、武器を身につけていても、怯むことなく、狭い橋桁の上をひょいひょいとウサギ跳びに飛び越えることができたのです。
さて、一来は持ち前の身軽さで跳ねながら戦い、太刀の影は天にも地にも映り、まるで稲妻が閃くかのように、次々に敵を斬りつけていきました。切り落とされたり、斬り伏せられたりした者は数えきれず、これには身分の上下を問わず皆がその戦いぶりに目を見張り、明俊と一来の二人に討たれた者は83人にもなりました。まさに二人は一人当千の兵です。
「むざむざとこれらの者たちを討たせてはならぬ。新手の者たちよ、打ち寄せるのだ」
と衆徒たちの活躍を見た頼政が武士たちに下知、今度は渡辺党の武士たちが攻めかかりました。渡辺省、連、至、覚、授、与、競、唱、列、配、早、清、遥などをはじめとして、渡辺党の一文字名の者たちそれぞれに名乗りをあげて、その勢およそ30余騎、馬より飛び下りて橋桁を渡って戦いました。
結果、忠清の300余騎は明俊、一来、渡辺党の30余騎の軍勢によって200余騎が討たれ、100騎ほどは引き退くという戦果をあげました。
忠清の軍勢が引いた隙に、明俊は平等院の門内に退いて休みました。身に刺さる矢は70余り、重傷箇所は5ヶ所にも及び、応急処置として所々に灸を据えるなどして養生しました。しかし、これ以上の戦闘はできないと観念したのか、やがて浄衣を着、頭をもたげて棒杖ついて、念仏を唱えながら南都の方へ落ち延びていきました。
園城寺の衆徒に円満院の大輔慶秀、五智院の但馬明禅という者がいました。これらの者たちもこれまた武勇に優れた者たちでした。慶秀は白い帷子に黄色の大口袴を着て、萌黄の腹巻に袖をつけた出で立ち、明禅は褐の帷子に白い大口袴を着て、洗い革の腹巻に射向けの袖をつけるという出で立ちでした。
彼らはそれぞれ薙刀を手にし、兜のシコロを傾けて橋桁を渡ろうとしたものの、平家の武者たちは近づけまいと矢を射かけて矢衾を作ってきたため、射すくめられて思うように橋桁を渡ることができません。そこで但馬は薙刀を振り上げ水車のようにくるくる回し、矢を次々にはたき落としました。矢が四方に散る様はまるで春の野に飛び散るトンボのようでした。これには味方も興にいって褒めはやし立て、この一件から五智院の但馬は「矢切の但馬」という異名を取りました。
なお、平家方は橋板が外れているのを知らずに、敵に一目散にめがけて我先にと攻めかかってきた者もいたため、後ろからどんどん押されて先陣の500騎ばかりは川に落とされ流されてしまいました。火縅の鎧が浮き沈み流れる様は、まるで神名備山(奈良の斑鳩にある三室山)の紅葉が峰の嵐に誘われて、麓を流れる竜田川の井関に引っかかって流れずにあるかのようであったといいます。《中編へ続く》