【明禅・明秀】以仁王の乱に登場する寺法師たち(4)
明禅 【みょうぜん】(?~治承4年〔1180年〕?)
『平家物語』の橋合戦(宇治平等院の戦い)で活躍する園城寺衆徒。通称は五智院但馬。名前は他に後中院但馬(『延慶本』)といった表記があります。
『平家物語』では橋板のない宇治橋を渡るのを躊躇して、矢を射かけてくるばかりの平家方の武士たちを前に、明禅は大薙刀をくるくると水車のように回して飛んでくる矢を次々にはたき落とし、その矢は230本にも及び、向かってくる敵あればたちどころにそれを切り伏せて、切られた者は十余名に及びました。そして、その戦いぶりを見た味方の者たちは“矢切の但馬”と呼んで褒めそやしたといいます。
明秀 【めいしゅう】(生没年不詳)
平安末期の園城寺の僧。浄妙房。通称は浄妙明秀。『平家物語』の橋合戦(宇治平等院の戦い)においてその活躍ぶりが描かれる園城寺衆徒の一人です。名前は他に筒井浄妙、浄妙明俊などがあります(『延慶本』『長門本』)。
『平家物語』で明秀は宇治平等院の戦いで先陣を切り、平家軍の武士たちを相手に得意の薙刀をはじめ、弓矢、太刀、腰刀(短刀)といったあらゆる武器を駆使して奮闘し、しまいには満身創痍になりながらも圧倒的劣勢であるはずの以仁王方の戦線を支える武芸に秀でた僧として描かれています。
しかし、戦い続けることができなくなるほどの重傷を負ってしまった明秀は武具を外して一足早く戦線を離脱、南都(奈良)方面へと落ち延びていったといい、その後の消息は不明です。
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