世界三大不思議
今回もまた拙文をだらだらとをはじめていく前に、前回私が問いかけた疑問に回答してくれた二名の友よ。本当に有り難う。よく分からない内容もあったが「飼い猫の腹を撫でる」という表現はとても美しく気に入った。いつか君とモーニングに行く日を楽しみにしている。当事者である君は自分のこととわかっているだろうし何を食べたいか考えておいてくれ。
はてさて、「やい、此度はどんな謎を持ち来たりしか」と興奮する読者諸君、少々待ちたまえ。そして落胆させるようですまない。今回は前回のように諸君に何か大発明をして欲しいわけではなければ、前々回のように私の身に起こった不幸を笑って欲しいわけでもない。私がこの世に生を受けてからというもの一日たりとも考えなかったことのないこととまで言ってしまうと少々言い過ぎではあるが、いわゆる私の中で世界三代不思議の一角となりたるものについて共感をして欲しい。いや、もしかすると今回もまた答えが知りたいのかもしれない。そうなるとまた諸君にも考えていただかなければならないのだが、きっとこの投稿をすでに楽しみにしているという変わり者は今頃鼻息を荒くして考案の機会に歓喜しているだろう。
世の中に不思議だと思う事象の数といったら数えたことなどあるはずもないが、簡単に天文学的数字に到達することだろう。今ではレギュラー化しているが数年前までは毎年私がこの世で最も忌み嫌う蟬が五月蝿く鳴き散らす頃に放送されていた、私がこの世で最も好きなラジオ番組夏休み子ども科学電話相談には何度天を仰がされたことやら分からない。子どもの着眼点の鋭さや柔軟な発想に感服するとともに無知である自分を恥じる人生の中で最も有意義と言っても過言ではない時間なのである。中国古典は大概何を言っているか分からないが「學然後知不足、教然後知困」とは夏休み子供科学電話相談を聞く大人という意味であるに違いない。
私はもう幼気な子どもではないため残念ながら私が23年間謎としているこの事柄について高尚な専門家に解決してもらうべく電話することは叶わない。しかし万が一にも夏休み大人科学相談なる番組が今後成立し、放送されるのならば私は絶対に電話をしてやるのだ。それほど私はこの謎を徹底的に究明したい。一体全体その謎とは何なのだと全国各地の読者の堪忍袋の緒が切れ、雷鳴の如く轟くことが容易に想像できるため早速発表しよう。
人はいつ地球儀を買うのですか
この疑問を読んだ読者諸君が口をあんぐりと開けて天を仰がされている様子が容易に目に浮かぶ。おそらく考えたこともないだろうし、あったとしてもそれはとてつもなく深い謎ではないだろうか。今夜この謎を全世界に受けて発信したところで解決するものでもないだろう。しかしこの謎の真相を究明することは私の人生そのものと言ってもいい。何しろ私はこの謎とともに生きてきたしこれからもこの謎と共に生きていくということは紛れもない事実なのだから。
まずはこの謎を抱くに至った経緯から説明しよう。私が幼少期からお邪魔したことのある家にはかなり高い確率で地球儀が置いてあった。無論私が生まれた家にもあったし祖父母の家にも年季の入ったものがあった。多くの家庭がピアノの上に置いたり窓際に置いたりしていて、自分の部屋を持つ友人はその部屋の箪笥の上に無造作に置いていることもあった。いつこのように記憶したかは定かではないが、かなり幼少の段階で「地球儀は一家に一つあるものだ」と認識したことは覚えている。
そして私の記憶の中ではその各家庭に一台はある地球儀はものすごく高い確率で埃をかぶっていた。日常的に使っていないことの証拠である。これもまたいつ覚えた感情なのか忘れてしまったが、ある日「使わないのになぜ人は地球儀を買うのか」と思ったことがあった。そして最終的に私は「各家庭に一台地球儀がある。しかしそれは高い確率で埃をかぶっており、それは所有者がその地球儀を日常的に使用してはいないということだ。ではなぜ人は地球儀を買うのか。いや、そもそも人はいつ地球儀を買うのだろうか。」という思想を持つに至ったのである。
地球儀に限定せずとも、人が何か物を買うに際して、「なぜそれを買うのか」と問われれば十中八九「それが必要だと感じるから」であろう。必要のないものに大事な金を使うことほど無意味なことはない。ということは少なくとも人にはいつか「私の人生に地球儀が必要だ」と感じる瞬間があるのだろうか。この謎の真相にたどり着くことができないのは私の尻がまだ青い若造だからだろうか。歳を経ていずれ白髪まじりの中年の親父になる頃「ワシの人生には足りないものがある。それは地球儀だ。」とハイテクなキャッシュレス決済を利用してアナログな地球儀を購入するという到底現実に起こりうることとは思えないようなことが起こる日が来るのだろうか。
そもそも地球儀とは何のためにあるのだろう。小さく折り畳むこともできなければルーペを使わなければ見えないような小さな字で国名や主要都市の名前が記載されていて実用性は極めて低い。今や携帯電話やコンピュータを開けばその国や街の場所は愚か、実際にその場に立った時に見える映像が見えたり、人生を何度やり直したとしても決して行くことはないような地球の反対側の国にあるほっそいほっそい路地の写真まで確認できるというのに、このようなハイテクノロジーは地球儀には搭載されてはいない。地図を確認するためのものであれば現代社会にはもはや必要のないものになってしまっているかに思えるが、先日大型複合商業施設で油を売っていたときに確かにこの目で地球儀が売られているのを確認した。それは何年も前の話ではなく、紛れもなく2020年の出来事だった。最近の地球儀には謎のペンが紐でくくりつけてありそのペンで地図を押すと地球儀が喋るという仕様になっていたことには驚いたのだが、それは今ここで論ずるものでもないので無視しよう。話は戻るが地球儀の存在意義が正距方位図法などという、とてつもなく小学5年生の時の教室の匂いを思い出すための単語を記憶するためだけのものとも考えづらい。こうして地球儀に関して考え始めると私は決まって訳が分からなくなってしまう。私はこれを地球儀のパラドックスと呼んでいる。
それなりの大人になった今、親の扶養も外れ自分で稼いだ金で生活するようになり、モノやカネに対する考え方も以前に比べて少しは変わった。絶対に必要ではなくても、地球儀に関していえば例えば「インテリアとして置きたいから買う」ということもあるのかもしれないと思った。確かに地球儀の見た目は無骨で格好良い。特にプラスチック製ではなく薄汚れた茶色の紙製の地球儀であれば少し欲しいかもしれない。されど買ったらどこに置くのか、果たして購入して日常的に使うのか、使わないのに買って埃をかぶらせてしまったら地球儀に申し訳ない。何より地球儀というものはかなり高価だ。特にインテリアとして飾っても良いなと思える少々古風なデザインのものは1万円弱は平気でする。明日食うものの心配すらしている今の私にとってそのうち埃をかぶることになるやもしれぬ球体に福沢先生を出すことはできない。
しかし今回、長年抱き続けているこの謎について自分なりに言葉を紡いで表現してみて一つの感情を覚えている自分がいることに気づいた。それは私は今後もこの謎と共に人生を歩んでいきたいということだ。なぜこんな感情に辿り着いたのだろうか。それはもしかしたら将来の世界に地球儀を購入している自分がいて、その私がクルクルと球を回しながら「考えろ、その謎の真相を」と強く訴えているからなのかもしれない。もしくは私がこう言ったパラドックスに陥ることを実は心の奥底で楽しんでいる救いようのない奇人なのかもしれない。だがしかしそこはあまり重要ではなくこの感情に気づいたことに大きな収穫があったと勝手に信じている。
今回の投稿に関して「私の家には地球儀はなかった」だとか「地球儀は一家に一つもないだろう」だとか「これからの時代地球儀を買う人はいなくなるよ」などというコメントは控えていただきたい。私が聞きたいかもしれないコメントとはそういうことではなく、「人はいつ地球儀を買うのですか」という私が長年抱いている疑問に対して、私とは異なる様々な生い立ちや思想、感覚を持っている読者が何を思い、何を感じるのかと言った部分だからである。それがただただ知りたいのである。支配することのできない好奇心がそうさせているのだ。こんなものに最適解などあるはずがない。それぞれの人がそれぞれの答えを出せば良いのであり、もっといえば答えを出す必要すらないことなのかもしれない。しかし私の人生はこの謎を抜きに語ることができない。きっと誰にでもそういうことがあると思う。
私はこれと共に生きているということが。
それを認め合ったり、一緒に考えたり、尊敬したりすることがその人を深く理解することなのだと思う。それがその人そのものなのだから。馬鹿にしたければすれば良い。私はそういう人とは深い関係にはなれない。逆に言えば深い関係になりたい人のそういうところが知りたいのだ。
何が言いたいのかといえばこの「人はいつ地球儀を買うのですか」という馬鹿げた謎こそが私自身なのであり、この文章こそが私なりの自己表現なのだということだ。とてつもなく複雑な自己表現をしたところで僕は再び天を仰ぎ、今一度「人はいつ地球儀を買うのだろうか」と壁にぽつねんと貼られたメルカトル図法の世界地図を見つめながら考える。謎は深まるばかりである。
2020年6月10日
世界地図の前