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いつからか、言葉にしたことはなくとも好きなこと

 いつからだろうか。趣味と呼ぶことができるのかもわからないが、ずっとずっと好きなことがある。趣味と呼ぶことができるのかもわからないため、誰かに話したこともなければ、誰かに理解して欲しいと思ったこともない。しかしこの事が好きな人間が私であり、私という人間がこの事が好きであるというのは紛れもない事実だ。そしてこれが不変の事実である以上、一度それをなんとか言語化してみたいという想いに駆られた。そう感じたきっかけは私のnoteが1つのきっかけとなってnoteをはじめたという高校時代の友人の投稿を読んだことだった。つまるところ今日という日に、彼のおかげで私の秘密の嗜好が本邦初公開となるのだ。私のおかしな趣味が世に露わになることで、特に誰に感謝されるわけでもなければ、誰もそれを望んでいないのは承知の助であるが、どうか最後までお付き合いいただきたい。

 ところで、私がいつからか言葉にしたことはなくとも好きなこと、それはずばり物件名を見て、その命名主がその物件に込めた想いを推察することだ。あまりにも意味不明で何度か読み返した人がいるだろうか。あるいはしょうもなさすぎて鼻で笑った人がいるだろうか。最初に「理解されたいわけではない」とはいったものの、実のところ読者諸君がこれを読んでどう思ったのかは少々気になるところではある。これはきっと私の性だ。よかったらコメントで率直な第一印象を教えて欲しい。とはいえ、判断するにはいささか情報が少ないので、もう少し詳しく書いてみることにしよう。

 マンションやアパートなどの物件にはほぼ100%の割合で名前がついている。あえて“ほぼ100%”といったのは、どこかには名前のない物件があるかもしれないが、今のところ私は名前のない物件に出会ったことがないからだ。そしてほぼ100%の確率で名前がついている以上、そこにはなんの面白みもない名前も一定数存在するし、ロボットが順番につけたかのような無機質な名前もまたたくさんある。現に私が現在住んでいるマンションなど、日本中にびっくりドンキーの店舗数くらいあるのではないかと思う。日本中にびっくりドンキーが何店舗あるのかなど知ったことではないが、どこかのグループが所有しているであろう、いわゆるチェーン店のようなマンション名だ。ところが、そうしたしょうもない名前の物件の中に紛れて、その個性をまるで糺の森にこの時期にだけ現れる蛍のようにきらりと輝かせる物件の名前がある。こうした物件を見つけた時、私はとても感動する。

 そもそも人間はなぜ何にでも名前をつけたがるのだろう。生まれてくる子どもにはもちろんだが、動物や植物、時にはモノにまで、ありとあらゆるものに名前をつける。効率化を考えたらアルファベットや数字で充分であるはずなのに、そうしないのはきっと、そこに人の心があるからであろう。子どもには「こんな風に育って欲しい」「こんな大人になってほしい」そんな想いを込めて、動物や植物には、「自分が精一杯の愛情を責任を持って注げるように」、皆一貫してそこに存在する想いを証明するかのように名前をつける。そんなに大切な想いを忘れるわけなどないのに、まるで「この想いを忘れないために」とでも言うかのようにだ。人間の欲深さを垣間見る一面のような気もする。人間臭くて愛らしい。

そんな人間の健気な想いが、まったくもってなんの変哲もない、そこいらの路地にぽつねんと佇むマンションやアパートなどにつけられている時、私はひどく心を揺さぶられてしまう。

「この建物にきっとこんな想いを込めた人がいて、そこに住んでいる人がいる」
「そこに住む人はその名前をつけた大家さんの想いを汲み取っているのだろうか」
「大家さんはどうしてこんな名前をつけたんだろうか」
「そもそも私の推察するこの物件名の由来は正しいのだろうか」

そんなことを考えてしまう。無論、逐一その物件の名付け親に連絡をとって、「この物件の名前の由来を教えてください」などと聞いて回っているわけではないので、最後まで物件名の由来は推察に過ぎない。とてつもなく素敵だと感じた物件名も、蓋を開けてみたら「ネットで検索したときに一番上に出てきたもの」なのかもしれない。だが、その土地の雰囲気や匂いを反映しているものはなんとなくわかる。中には「この面白さに気づいてよ!」と訴えかけてくるような、クスリと笑えるお茶目な名前もある。そんな名前に気づいた時には「大家さん、私は気づきましたよ」と空を見る。すると不思議なことにとても温かい気持ちになる。

 その土地に何か特別なものがあるわけでもなく、思い切ってその物件に引っ越してくるわけでもなく、同じ映画を何度も観るように名前が素敵だと感じたマンションをいつの日にかまた観に来るわけでもない。ただ、道を歩いているときに突然やってくる一種の一期一会のような瞬間が私はたまらなく好きなのだ。その理由はよくわからない。なぜかフランス語がよく使われているからだろうか。物件の雑誌やサイトを好んでよく見るからだろうか。きっとそうではない。利便性ばかりが重視され、人との心の距離がどんどんと離れていってしまうような感覚に陥りがちなこの時代に、人の温かい心を垣間見ることができるからだ。例えるなら『星の王子さま』を読んだ後のような感覚になる。たかが物件名ひとつにそこまでの哲学は存在しないのかもしれないが、私はそう信じてやまない。それが私なのだから。

 今回もまた長々と私の歪み散らした嗜好について書いてみたわけだが、なぜ物件名に魅力を感じるのか文章化してみるのは難しかった。しかし、書いては消し書いては消しを繰り返す中で気づきや思い出した感情というものもあった。気づいたことといえば、物件名には魅力を感じるのに、想いが込められまくっている”店舗名”や”商品名”にはそれほど魅力を感じないこと。これはどうしてだろう。”想いを込めてますよ!”という気持ちが全面に出過ぎてて品がないように感じてしまうからだろうか。そう考えると物件の名前に魅力を感じるのは“奥ゆかしさ”があるからなのかもしれない。そして思い出した感情、それは大学受験のために予備校に通っていた時、実家を出て初めて我が城を手に入れるのが心底楽しみで、物件情報誌を漁りまくっていたときの気持ち。今となっては私の人生になくてはならない存在となった高校時代からの親友HJ氏と、予備校の休憩室で「この物件はどうだ」だの「世界遺産まで徒歩5分の生活が待っている」だのと夢を見ていたあの頃を思い出した。自分が出ていくことを寂しいと感じてくれていた家族の気持ちに気づくはずもなく、あの頃の私は物件に夢中だった。両親や、まだ中学生だった弟は、目を輝かせながら物件の話をする私を見てきっと複雑な胸中だったに違いない。しかし、今その気持ちに気づけたことは良かったし、そのどれもが自分を形作っている大切なピースだとも感じた。何かとても大事なことを思い出したような満足感さえある。

 まさか物件名についての想いを文章化してみることで、こんなにもたくさんの感情に包まれるとは予想もしていなかった。これからも私は物件名とそこにあるかもしれないし、ないかもしれない名付け親の想いに感動できる人間でありたいと思う。もちろんいつか自分に子どもができた時にも、そんな風に人の気持ちがわかる人になってほしいという想いで名前をつけるのであろう。

2021年6月1日

面白みに欠けた名前のマンションの一室にて


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