映画「そばかす」を観た話
ごきげんよう、大淀です。
先日映画「そばかす」を観ました。
本noteはその感想もとい備忘録です。
(本文は文体が変わります)
映画の上映開始から時間が経っているので上映館が減っているかもしれないのですが、もしまだ未視聴の方がいればぜひご覧ください。
以下ネタバレを含みます。
まずは「そばかす」のザッとしたあらずじ説明を。
とったお話。
「アセクシャル」について触れた作品。
私もアセクシャルを自認している人間なので、主人公の蘇畑さんの気持ちは痛いほどわかった。
「恋人作らないのか」「結婚しないのか」など、言われて嫌な事の質感が非常にリアルで、上映中思わず胸が苦しくなる部分も多かった。
お見合いの場で出会ったラーメン屋を営む男性、木暮翔さんとの一連の話も、見ていて苦しかった。
この映画を観た人の中には、この一連のシーンの蘇畑さんを見て「こういう状況(二人で泊りがけの旅行に行く)になって、相手の好意に気付かないなんておかしい」と言いたい人もいるのかもしれない。
私も「物語上そういう展開だろうなぁ」とある程度予測して客観視して考えていたが、それはあくまであらゆるフィクション・ノンフィクションに触れて導き出す、統計をもとに考えているに過ぎない。
蘇畑さんの立場からしてみれば、自分と同じ考え方をしていて(少なくとも最初の出会いはそうだと思う)、あくまで友達として出会った相手だから、自分に恋愛感情を向けていない相手として油断していたとしても不思議ではない。
「友達とはいえ、男女二人きりで旅行に行くのか?」といわれたら、そんなもの個人の感覚だから、友達なら性別関係なく旅行に行ける人間だっているはずだ。
現にこのシチュエーションにおいても、二人は部屋を別に取っている。
私個人の考え方は一旦置いておくとして、それなら別に抵抗ないなと思う人もいるのではないだろうか。
私はホテルの部屋での場面、蘇畑さんは蘇畑さんの立場としてかなり誠実に立ち回ったと思う。
「あなたが悪いんじゃない。私は誰に対しても恋愛感情を抱けないし、性的な目で見れない。ごめんなさい」と自分のことを説明している。アセクシャルの人間からすれば、これ以上に説明できないだろうと思う。
しかし相手には「俺に男としての魅力がないから、そういう風に見れないだけなんだろ」と一蹴されてしまう。
男としての魅力とはなんなのだろうか。
性的な、恋愛的な魅力だけが「男の魅力」ということなのだろうか。少なくとも、人間として魅力があったから友達になったはずなのに。
木暮さんも、あの時カッとなってああいう言動をしたのかもしれない。
一晩冷静になったとき、彼は蘇畑さんの言葉でなにか思うことはなかったのだろうか。少しだけ気になる気がする。
彼女の出会いは決して悲しいものだけではない。
のちに蘇畑さんの職場になる保育園を紹介してくれた、元同級生の八代剛志さんとのシーンが好きだ。
園児のいなくなった教室で片付けをしているとき、あることがきっかけで彼は自分がゲイであることを蘇畑さんに打ち明ける。
それを聞いた彼女は「そうなんだ」とあっさりした様子で返事をする。
そんな姿を見て「みんなが蘇畑みたいだったら(よかったのに)」と言ったことが非常に印象的だった。
八代さんもきっとマジョリティと違うからと異質扱いされたことがあるから尚更、なんてことない自然さで受け止められたことがうれしかったんだと思う。
受け入れられることももちろん大事だが、もっとその先の、それに特別何も抱かれない、「自然」な状況になることが一番いい状態なのだと私は思う。
そして、かつての同級生である世永真帆さんとの再会エピソードが、ある意味私にとって一番胸にのしかかった気がする。
彼女はシンデレラの物語を読んで、「女性の幸せって恋愛や結婚がすべてなの?そんなのおかしいと思う」と話す。
そして蘇畑さんと一緒に、蘇畑さんらしいシンデレラのお話を作るのだ。
(結果的にこのお話の上映は途中でやめることになってしまうのだが、このデジタル紙芝居ものちのちの伏線になっていて良い)
意気投合した彼女たちは一緒に住もうと計画するのだが、その計画は真帆さんの恋人との復縁と結婚によって頓挫することになる。
私はこのシーンを見て、「結局どんなに大切だって言ってくれても、恋人が出来ちゃったら置いていかれるんだ…」と気持ちが暗くなった。
どんなに自分を好きだよ、大切だよと言ってくれた友人だって、私の知らん男と結婚するときはするのだ。
そういう時いつも私は、結局友達じゃあその子の「特別」ってやつにはなれないんだと痛感する。
(この話は以前書いた「マイ・ブロークン・マリコ」の感想でも触れたので、ラストにリンクを貼っておこうと思う)
しかし蘇畑さんは違う。
蘇畑さんは「真帆は大切な友達だから、幸せになってくれてうれしい」と心から言えるのだ。
なんて愛がある優しいひとなんだと思った。
妹から真帆さんとの関係と絡めてレズビアンを疑われて反論したときも、それがよく伝わってきた。
あれは、恋愛感情でなくても、相手を深く愛し大切にできるということを描きたかったんだと思う。
恋愛が出来なかろうが、愛情はある。
ラストに出てきた同じ保育士の天藤光くんも、あの短時間の登場ながら非常に重要な人物だったと思う。
彼は職場の人間ともプライベートで関わろうとはしない人間だったが、蘇畑さんのことを映画に誘う。
帰り道でどうして誘ったのかと聞かれた天藤くんは、蘇畑さんの作ったシンデレラを観たのだと話し始める。
「おなじような考えの人がいて、どっかで生きてるならそれでいいと思った」と話す彼は、この物語の本質だと思った。
この言葉を抱いて生きていきたいと思える、本当にお守りのような言葉だ。
それを伝えた彼が、「じゃあ、俺はここで」となんてことないように分かれたことも印象深かった。
この映画は「ノットヒロインムービーズ」と題されている。
ラストシーンはまさにそうだと思った。
ドラマチックなことが起こるわけでも、二人の関係性がここから進展するわけでもない、日常の延長線で終わる。
彼女の走る姿はきっと、宇宙戦争のトム・クルーズみたいに逃げてるわけじゃないと思う。
前向きな走り姿に私には見えたのだった。