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自分のことをオバサンと言うべきでない理由

オバサンの代わりにオジサンでも、不細工でも、頭が悪いでも、学歴が低いでもいいのだけれど。

要するに、あえて自分を嘲笑するようなことを、わざわざ言うべきではないよと。

今回は少し過激な内容になってしまうかもしれない。多少、乱暴な言葉を使う。

でも決して、誰かを貶めようとするわけじゃない。

それを言っているときの姿はやはり美しくないし、そんなつまらない価値観で、本来魅力的な「自分」を痛めつけるのは、絶対にやめたほうがいいという、いろいろな理由のお話。


「ふつう」を盾に笑顔で足を引っ張り合う人たち

わたしには、なかなか尊敬している、長いつきあいの日本人女性がいるのだけれど、彼女の言動でどうしても理解できないことがある。

それは、自分自身や同年代の友人であるわたし、彼氏に対して「もう、オバチャンなんだから」「オバチャンのくせに○○」「もうオジチャンなのにねえ」と言うこと。楽しく会話をしている時、何かの拍子に、ニヤニヤしながらこの言葉を発して、笑いを誘おうとするのだ。


この「常識論を持ち出して、あえて人を傷つける」心理状態がわたしには、まったく理解できない。

理解できない理由には、大きくみっつあると思う。

① オバチャンだったら何なのだ。今の話と年齢になんの関係あるのか、あるとしたら、なぜ自分の決めたラインで「もう遅い」と一方的に人を判断するようなことをするのか。

② 人をけなして笑いを取ろうとする心理。怒ったことはないが「だって本当のことでしょ?」「冗談じゃない、本気にしないでよ」という態度が見えている。ふくよかな人に「おい、デブ」と傷つけるようなことをわざわざ言って、相手が不服を表せば「本当のことだろ?」「ただの冗談だろ、笑っとけよw」という状況と同じ。被害者にはなんの非もないのにコミュニケーションが不可で、もらい事故以外のなにものでもない。

③ 人の足を引っ張る感。わざわざあら探しをして相手を貶め、心理的に支配する欲求に似たものも感じる。


彼女の例だけでなく、実際この「ふつうはこうだから」と、常識論を隠れみのにしつつ人を傷つける人たちを、日本ではたくさん見てきた。

もっとも気持ちが悪いのは、

わたしはこう思うから、あなたのこれは間違っている」と主張するのではなくて、

一般的にはこうなんだから、あなたはだめだよね」という、実はまったく芯がない論旨で、責任を取ろうとしないくせに批判だけをしようとするところだ。


こんな会話をしたことがある。


A「その年で海外に行って勉強をはじめるとか、常識的に無理があるんじゃないの?親とかにも何か言われない?(半笑い)」

私「わたしは、何かを始めるのに遅いことはないと思いますけどね」

A「いや、実は自分もそう思うんだけどね」


書き起こしても、気持ち悪さにモヤモヤしてしまう。

Aさんはまず「常識」を添付することで発言の責任をぼやかし、わたしが「わたしは…こう思う」と返したことで、はじめて自分の意見を言ったのだろうが、はじめは自分の本当の意見と違うことを、あえてわたしにぶつけてきたことになる。

では最初のセリフは、なんのためにあったのか。

これは、「一般論」を持ち出してわたしの気分を害そうとした、ということではないだろうか。

いやなことに、こういう主旨のことを言う人は、たくさんいる。自分の視野の外にあるものごとや人を、平気で傷つける人。ときに、「心配して言ってるんだけど」などと付け加えながら。


そして、同様に本心では違うことを思っているのに、自分のことを「オバサンだから~」「頭が悪いから~」「不細工だから~」とあえて形容することは、このやりとりを自分自身でおこなう自傷行為に似ている。

さらに言うなら、「一般論」を持ち出して自分を傷つけてみせ、さらに「こんなダメな自分だけど受け入れてよね」と、相手に憐れみや同情を求めようとする行為だ。


人のことをオバサンだとか、デブだとかハゲだとかバカだとか言う人も、

自分のことをオバサンだとか、デブだとかハゲだとかバカだとか言う人も、

それを言う瞬間は、だれもがうす気味の悪い笑みを浮かべている。


卑屈な笑顔。この世でもっとも「美しくない」と思うもののひとつだ。


常識論で縛られた世の中で

わたしは、人を活かすための製品やサービスを開発しており、たまに日本に訪れては、日本社会の中で色々な「すべき論」に苦しんでいる人、自己表現の機会を奪われている人、組織の中で不自由を感じている人のためにワークショップなどをして、外からちょっかいをかけさせてもらっている。

「誰もが特別な個性を持っている」「才能のない人はいない」「個を活かすことで、組織も活かす」というのは、ゆるがない信念だ。

けれども、わたし自身日本に住むことを避けているのは、「ふつうの人と比べて変わって」いるために常識論の標的にされやすので、自分自身の心を守って、少しでも長く人のために頑張るためだ。

感覚がするどいぶん、まわりの負のエネルギーをまともに受けてしまうので、自分が立っていることすら難しくなってしまう。


とくに自分は、性別的役割において、ものすごくストレスを感じる。

彼氏、結婚、子ども…形だけの、テンプレート的幸福に興味はないのだが、自分なりに懸命に考え事業を起こして、日々死ぬ気で生きているというのに、それでもまだ「結婚は?」「彼氏は?」「えー!もてそうなのに!」「まだ全然いけるよー」と、その人たち自身も大して価値だと思っていないような、何の実もない会話に足をとられる。

これから、女性が受けているプレッシャーの例を書いてゆく。

男性にも、男はこうでなければならない、立派になる、家族を持つ、稼がなければ…という思い重圧がかかっていることは、わかっているつもりだし、社会福祉を学ぶものとして、人としての「平等」について、わたしは独特の考えを持っている。こういう「社会の犠牲になっている」感は、誰もが持っていて、誰もが被害者であり、隠れた加害者だ。

けれど自身は男性ではないため、経験を話すことはできないので、ここでは単に女性としての「こうあるべき」プレッシャーの体感を書こうと思う。


女子中学生・女子高生・女子大生

OL・熟女

新妻・妻・人妻・未亡人


この国に、「女」を表す言葉は山ほどある。

日本女性は、数年ごとにカテゴライズをされて、「女子高生ならこうあるべき」「女子大生はこう」という世間からのイメージ的な役割を押しつけられ、常にそのように「演じる」ことを求められる。

いつもいい子で、良く勉強し、複雑な世にあっても純粋な顔をし、ある程度の年齢になったら自分に向けられる欲望を理解し、受け容れ、男性を愛し、仕事をやめ、子どもを作り、時に働きながら家庭を支え、子どもを育てる。親に何も言われずとも、社会に漂う風潮、プレッシャー感は、いつも感じてきた…というのは、わたしだけではないだろう。

世にはびこる、性的なプレッシャーがもっとも重荷である。たとえば、あどけない少女から、スカートの短い小生意気な女子高生、おしゃれで性に奔放な女子大生、ストッキングの似合うセクシーなOL、清楚な若妻、欲求不満の人妻、妖艶な熟女へと変化しつつも、同時に良き母親であることが求められるダブルバインド(二重拘束)。

これらはすべてポルノ作品のカテゴリーになっており、内容も被写体女性の年代によって自然に定まってくるように、本来の人の多様性に比べ、有り様があまりに記号化されすぎているのだ。

ただ、女に生まれたというだけで。

出世魚ならまだしも、右も左もわからないうちからちやほやされ、多くの場合性的欲求の対象にされ、やっと性というものをわかってきたところで、ババアと用済みの烙印と劣等感を植え付けられるベルトコンベアーの上だ。


鹿児島県の伊藤祐一郎知事の「女子高生に三角関数を教えて何になるのか」という思い切りクリーンヒットな発言は、ある意味その空気を体現したものだと思う。つまり、まあどうせ近いうち子どもを産んで育てるだけなのだから、教育を受けさせるのももったいないし、今はバカそうにして、スカートひらひらさせてればいいのに、という。

こういう差別発言をさも偉そうに言って、笑いと拍手を会場から受けるのが高学歴者であり政治家であるのならば、これを政治家に仕立てたのはわたしたちであり、彼は世論の権化、わたしたちの業だ。


女性の状況だけでなく、様々な差別が人間によって作り出され、状況をただ受け容れるだけの被害者たち、苦しみを気づかない加害者たちによって、引き延ばされていく。

自分の足で立ち、考える、生きる

ここから、この業を解消するようなカウンター的考えを並べていく。


たとえば、女性自身がやたら若さを気にするのは、「性的欲求の対象であることが価値」だと思いこんでいるからに他ならない。

社会が長くそうであるゆえに、それが自分自身の価値観であると思いこんで行動し、それによって無為に人を傷つける風潮を長引かせているとも知らず。

納得できないけれど、わたしたちは、自分を追いつめている自分に、世の理不尽さに、気づかなければならない


「女性」が「若い」ほうがいいというのは、生物学的に生殖目的で「男性」を「性的に興奮」させられる可能性が高いからだ。

もし今の人間社会がまったくのワイルドライフであったなら、「女性は若い・子どもをたくさん産める」「男性は強い・子どもをたくさん産ませられる」が魅力の価値基準であったとしても納得できるが、今はそうではないだろう。

社会は多様に変化し、生き方も考えもそれぞれ違う人が価値を生み出していく。子どもをたくさん産まなくても、敵と戦わなくても生きていける、人に何かを与えられる。性別に限らず、自分に向いたことを自ら選択して社会貢献できる、個の時代だ。


ゆえに、突き放す言い方をすれば、「私もうオバサンだから~」とあえて言うことは、

私もう男性の性的興奮をあおれるような年令じゃないから、女としての価値はないかもしれないけど、でもこんな私のいいところを認めてね。

と、自傷しながら同情を求めることだ。

半笑いで自分を傷つけてみせつつ、年令で女性を判断する古い世の中を批判しながら、でもその価値観にしっかり捕らわれ、その上で「そんなことないよ~」という安い励ましや救いを他人に求めることだ。

美しくない以外のなにものでもない。


女性である前に、わたしは人です

わかっているはずだ、あなたの人生はそんなにつまらないものじゃないだろう。そんなことでしか測れないような日々を、ずっと過ごしてきたわけじゃないはずだ。

「女」がただ若いうちにのみ性の対象になるだけの存在なら、なんのために今、教育制度があるのだ。

教育とは、文明社会で生き残るための知識、社会と関わりながら自分らしく生きていくための基礎で、小学校から高校、あるいは大学まで、性別に関わりなく受け、学ぶことができ、その権利が保証されている。


大人になったら何になりたい?」「将来の夢は?」と問いかけられつつ、小さいころから男女とも一緒のシステムの中で学んできて、自分を活かせるような将来の選択を、考え続けてきたのではないだろうか?

一般常識と同じように生きる。自分できちんと選んだことならそれでいい。でも、もし満たされないと感じるのなら、ただいつのまにか「誰かの価値観」に沿うようになっていはいないだろうか、自分の本当の望みが押しつぶされていないか、考えてみるべきだろう。


生きるための知恵がある。可能性も与えられている。それを実現するだけの力もつけてきた。

なのに、女子に三角関数いらないと言われて、そうだよねえ~とヘラッと笑うような対応癖がついてきてしまってはいないだろうか?加害者を助長させてはいないだろうか。

そもそも「教育」「勤労」「納税」は義務であり、国連で中等教育を受ける権利も保証、奨励されているので、完全におかしいのはあちらのほうである。

差別されることに慣れることは、自分自身を差別し傷つけ、また同じように苦しむ誰かを作りつづけることだ。


心の充足を本当に得たいのならば、自分を下げるようなことを言うのではなく、ここまで数十年生きてきて、学んだこと、乗り越えてきたこと、できるようになったこと、いま人のためにできること、家族や友人、愛する人、大事にしているもの、信じていること、その時その時の美しさ…そういうものを、あなた自身が認めて大切にし、もっときちんと誇りに思わなければ。


なにも、女性の権利運動の活動家になれといってるわけじゃない。論点はそこではなく、性別・人種に関係なく、全ての人間には自分らしく生きる権利がある。

ただ自然に、けれどしっかりと、自分の良いところを知って誇りに思っていえば、わざわざ他人の評価や世間の常識を気にしなくてもよくなるはずだ。

そして自分が自分を大切に扱っていれば、よほどあなたを引きずり落としたい人でない限り、他人にオバサン呼ばわりされることも減るだろう。そういう雰囲気は出るものだし、そのような美しさ・個性を持つ人が増えることで、世界はきっと変わっていく。


Britain's got talentという、イギリスの人気オーディション形式TVショーで華々しくデビューしたスーザン・ボイルという女性は、日本でも良く知られていると思うが、今はもう50を過ぎた彼女の人気の理由は、歌のうまさの他に、自信と誇りに裏打ちされた彼女らしさ、愛らしさだ。

https://www.youtube.com/watch?v=deRF9oEbRso

https://www.youtube.com/watch?v=RxPZh4AnWyk(Long ver.)

サイモン「君はいくつ、スーザン?」

スーザン「私は47才。」(笑顔で踊る)

サイモン「…」  +観客、ざわめく

スーザン「まぁそれはただの私の一部だけどね!」(さらに踊る)

サイモン&ピアーズ「(冷笑)」  +観客、歓声


彼女のこのキャラクターと、美しい歌を聴いて、もう彼女に「オバサンじゃん」「美人じゃないじゃん」と言う人はまずいない。ピアーズも、「もう君を笑う人は誰もいないだろう」と添えて、最高の賛辞を贈る。

一般論では一見ネガティブな要素が、ポジティブに変わったのだ。

それくらい、世間の評価というのは危うい。たったの一瞬で、いくらでも、何度でも変わる。

スーザンがもし「私なんてブスで…」という空気で出てきたとしたら、どうだろう。歌はもちろんいいものだが、自信と自然な自己愛にあふれているからこそ、「人間として」惹かれるものがあるのではないか。


けれどそのために、だからこそ、自分自身はぶれてはいけないのだ。

自分だけは、最高のパートナーである自分を、裏切ったり、傷つけてはならない。

つらいとき、苦しいとき、うれしいとき、いつも一番そばで、自分自身を支え、休息や励ましを与え、生きようとし、いつも行動の一歩を踏み出させてくれる、自分を。

そして、他からの評価はいつもあやういからこそ、人の言葉に救いを求めてはいけない。

自由のために

女性に限らず、全ての人に同じようなことが言える。

実際人に会ったり、ネットサーフィンをしていて、とても嫌な気分にさせられる言葉が「俺、高卒だから」「学歴低いから」「どうせ三流企業ですから」「ブスだから」「ただしイケメンに限る」といった自虐。

これも同じことで、面白くもないのにジョーク風に自分を傷つけつつ、学歴や見た目や会社ランクで人を判断する世の中を批判しつつ、自身がその価値観に縛られそんな差別に加担し、そのくせ「誰もわかってくれない」と言いながら励ましを求め、「ほんとうの自分の良さ」をわかってくれる人がいないことを責めている。

一体どうしたいのだろうと思う。

こういう、自分の発言に責任を持たず逃げ道を作りつつ、なんとなく相手と世の中を批判して救いを求めるという、人の手を使ったオナニープレイさが、中途半端さこそが、自分の本来の魅力を隠してしまっていることに、気づいているのかどうか。

あなたの魅力はそこではないと、本当はわかっているはずだ。


男なら~、女なら~、二十代なら~、三十代なら~、

年令、学歴、収入、恋愛、仕事、家族、容姿、考え、

こうあるべき、こうでなければいけない、すべき、すべき……


世の中、メディアに踊らされているのか、こういうくそつまらないテンプレートばかりだから、そういうところで自分を評価したいがために、

「ちょっと痩せている」「ちょっと若い」「ちょっと収入が多い」「お金持ちと結婚している」「ブランドものを持っている」「子どもがいる」「ややイケメン」「いい車を持っている」などという微妙でくっそつまらない次元で人と差別化していくしかなくなるのだ。

そしてそれが常識論を笠に着て、せまい世界で「足を引っ張り合う」ということに繋がっていくのだろう。


同じような人間、同じような見た目、考えの人間ばかりの社会で、それに埋没しつつ虐げられることと共に生きていきたいのなら、ぜひそうすればいいと思う。

でも人間の個性の面白さはもっと、目をみはるような絶対的なものだ。「この人のために何かしてあげたい」「一緒にいたい」「この人に任せたい」「信じられる」と思わせるような、感動的なものだ。


世界にひとりしかいないあなたが、今まで生き抜いてきたこと、がんばってきたこと、人を励ましたこと、人の役に立ったことはなんだろうか?大事にしている人、好きなもの、きれいと思う風景、好きな言葉、強さ、弱さはなに?誇りに思うことは?

そういうことを全部知って受け止め、自分サイズで在り、自分の人生に責任を持つことで、自虐の必要はいくらでも消える。

人に励ましてもらわなくても、自分の相棒である自分が自身を励まし、時にへこんでも、また立って歩けるようになる。

そういう繰り返しが、自分をどんどん磨いていき、他の誰でもない、美しくて、誇れる自分を作る。


「自分なんか…」と言わない、人に依存しない、自分自身でいて、まわりがどうであれ、それを誇りに思う強さ。

そしてそんな「個」が増えて行ったら、社会はきっともっと寛容で、自由になっていく。きっと、つまらない常識論は消えていく。


だからそのために、勇気を出して最高の笑顔で言えばいい、「でもそんなのは俺の一部にすぎないよ」と。



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