220312 他人の気持ち・考えへの理解

他人の気持ちへの理解について

僕は他人の気持ちがわからない。
というか、わかるわけがないと思っている。
他人の気持ちがわかるとは、自身が相手の立場であったらどの様な感情を持つかを予測し、それを相手に投影することに尽きるからだ。
なので、『以心伝心』的な友人関係は成立しうるのか?と疑問は持っていた。

なので、他人の気持ちとは、あくまでも自身の感情の派生でしかない。
ただこれを実現するにも、ハードルはある。
自身の感情のレパートリーが必要となる。
より厳密に言えば、感情に対する言語化が上手くいっているかどうかが重要だ。
何かが自身に起こったときに、それに対する感情を言語化し、整理しなければ、相手の感情を想像し、共感することができない。(これは、220212にも記した例えにも通ずるものだ。)

つまり、自身が経験していないことに関しては相手の感情を理解、共感することは難しい。(小説や漫画などの創作物に触れることで、擬似体験はできる。)
確かに、僕のようなややこしい人間には、サーファーの内輪の小競り合いを理解できない。なので、『以心伝心』的な友人関係は、それぞれが類似した体験をつみ、その上で言語能力がある程度高い、という条件を超える必要がある。


他人の考えへの理解について


相手の考えに理解を示せるのって共感偏差値60くらいのひとなんじゃないか?と思っている。
相手の考えに対する寛容性は、①相手の思考回路を辿る力、と②明確な正解を導き出せない力不足、が同居している必要がある。

もし偏差値50以下ならば、①を持っていないだろうし、70以上のキレものであれば正解を導き出す、または相手の考えの弱点に気づいてしまい、②には当てはまらないだろう。

幸か不幸か、僕は割とこの辺り、共感偏差値60くらいに属している(と驕っている)。
コミュニティの中でこの辺りの人間が、どの程度存在するかに、グループとしての潤滑な生産は大きく依存するのではないだろうか。



このnoteは、『普段考えていることを、少しずつ言語化して残しておこう。』というモチベーションで続けている。そのため、ある程度の考えのまとまらなさ、不安定さは許容するつもりだが、それにしても今日のnoteのはかなりのババロア具合である。

数ヶ月後に見たら、全然考えが違うんだろうなぁ...。
まぁ、それはそれで面白いので、改めて書こうと思う。

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