第1話 胸の高鳴り
あらすじ
第1話
早朝のまだ誰もいないスポーツジムで、伊藤あかり(25)は一心不乱に走っていた。その姿は、何か恐ろしいことから逃げているかのようだった。
あかりはきっちり5㎞を走り終えると、ランニングマシーンをおり、シャワー室へ向かった。汗を流して、白のブラウスとベージュのフレアマーメイドスカートへと着替える。そして、パンプスを鳴らし名古屋のとあるビルへと入っていく。入口で”東海プリント株式会社”と書かれた社員証をかざし、エレベーターに乗り込む。
エレベーターが16階に到着し、あかりは”制作部”と書かれたオフィスをすすむ。好きなキャラクターのフィギュアが置かれたデスク、家族の写真が飾られたデスク、推しのアクリルスタンドを飾っているデスクを素通りし、自分のデスクの下に鞄をしまった。あかりのデスクはとてもシンプルだった。パソコンと白いペン立て。あかりは鞄を置いてすぐ、コピー機に向かい、用紙の補充や、観葉植物への水やりなど、テキパキと朝の雑用をこなしていった。
*
他の社員が出社してきた。
「伊藤さん、おはようございます。あ、会議の資料、ありがとね」
「伊藤さん、おはようございます。データの修正、ありがとうございました!」
「伊藤ちゃん、今日も早いねぇ」
あかりは話しかけてきた人に「おはようございます!」と眩しい笑顔で答えていく。
仕事が始まってしばらくすると、電話が鳴った。隣の席、推しのアクスタをデスクに飾っている後輩・西畑カナが電話に出る。彼女は4月に入社した新卒ながら、率先して電話を取る優秀な後輩だ。しかし、その西畑の様子が何やらおかしい。いつもであれば、明るく「東海プリント株式会社の西畑です」と名乗り、スムーズに取り次ぎをするはずなのに、今日の彼女は「はい…」「はい…」と歯切れが悪い。電話相手に「すみません」と小さく頭まで下げている。あかりは、西畑の異変を察知した。西畑の肩をトントンと叩き「大丈夫?」 と口パクで西畑に聞く。西畑は困惑した表情でメモ帳に走り書きをした。
『ネクストドラッグ ミス 怒ってます』
その文字はかすかに震えていた。あかりはそのメモを見て、即座に電話を代わった。
「お電話代わりました、伊藤でございます。大変申し訳ございません、納品にミスがあったということで…」
「おい、だから!なんとかしろって言ってんだよ!」
電話の相手はものすごい勢いで怒っている。あかりの脳裏に一瞬、誰かが怒鳴りあっている記憶がフラッシュバックする。
「先日、急ぎで商品を変えてほしいって営業の田村くんに伝えたんだよ。でも、今日確認したら間違ってるじゃないか!値段と商品名は変わっているけど、写真は前の商品のままになってんだよ。これじゃあ使えないだろ!」「明日からキャンペーンが始まるのに、どうしてくれるんだ!」「田村くんに電話しても繋がらないしどうなってんだよ」
ネクストドラッグは、あかりがディレクションを担当している顧客の一つだ。あかりは、田村という名前を聞いて嫌な予感がした。営業の田村は「やっとく、やっとく」と言って結局やると言ったことをやらない適当な男だ。他の顧客でも、田村のせいで何度も同じようなクレームを受けている。
あかりは、怒り続ける電話相手、オノさんに「はい」「大変申し訳ございません」と相づちを打ちながら、パソコンで田村のスケジュールや印刷機の状況、ネクストドラッグまでの所要時間を確認していく。一刻も早くネクストドラッグに正しい品物を届けるには、と頭をフル回転させる。
そして「必ず明日のキャンペーンに間に合うよう、一刻も早くお届けします」「一番早いスケジュールで、すぐに動かせていただきます!!」 と伝え、電話を切った。
「すみません…」 電話の成り行きを見守っていた西畑が申し訳なさそうに声をかけてきた。
「ううん、大丈夫だよ。これ、西畑さんは何か知ってたりする?」
あかりはできる限り穏やかな声で尋ねた。
西畑は意気消沈した様子で話し始める。
「何日か前に、営業の田村さんがここにやってきて、伊藤さんを探していたんです。でも、その時、伊藤さんは会議で席を外していて…。私は『1時間後に戻ってきますよ』って伝えたんです。そしたら田村さんは『1時間も待てない』と言い出して…」
「私にネクストドラッグの特大チラシの変更をやってほしいって言ってきたんです。『まだ入ったばかりで私一人じゃあ…』って言ったんですけど、『やり方は教わっているでしょ、商品の差し替えくらいなら難しくないから大丈夫、大丈夫。俺、確認しとくし』と押し切られてしまって。それで、それが、間違っていたみたいで…」 西畑の声は今にも消え入りそうだった。
「そういうことだったんだね」 あかりは優しく声をかけた。
「OK。まずは反省より、一刻も早くネクストドラッグさんに納品に行こう。私が間違ったデータを修正して、印刷に相談しにいくから!できるだけ早く再印刷してもらって、出来たらすぐにネクストドラッグさんに持って行こう。田村さんは出張中みたいだけど…一応私から連絡しておくね。西畑さんは、その間につばめ屋さんで羊羹を買ってきて。それを持って一緒に謝りに行こう」
西畑は目に涙を浮かべ、「はい」と頷いた。
「大丈夫だよ」とあかりは笑顔をみせた。
西畑は羊羹を買いに出掛けた。あかりは「大丈夫だよ」と言ったものの、冷や汗が止まらなかった。心を落ち着かせようと深呼吸をし、まずは上司の佐野さんのところへ向かう。「すみません、こういうことがあって…」「今から印刷部に相談しに行って、できるだけ早く西畑さんとお詫びに向かいたいのですが…」
佐野さんはあかりより10歳上の仕事ができる2児のパパだ。普段、うるさいことは言わない。比較的自由にやらせてくれる佐野さんの仕事のスタイルがあかりは好きだった。佐野さんは事情を聞くと、「分かりました。印刷が終わり次第、ネクストドラッグに向かってください。出掛けるとなると…今日こちらでフォローできる仕事はある?」とあかりに尋ねた。
あかりは今週のスケジュールを頭に思い浮かべた。今日、これからミス対応に追われることになると、明日からのスケジュールはかなり厳しいものになる。「えっと…」と言いながら、周りを見渡す。みんな、忙しそうに見えた。
「私の仕事はなんとかなりそうです!でも、今日の15 時からの会議は欠席になってしまうかと…」
「本当に大丈夫? 無理はしていない?」
「はい! 大丈夫です!」あかりは笑顔をみせた。
あかりが報告を終え、急いで自分のデスクに戻る姿を佐野さんは、心配そうに見送った。
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あかりは、データを修正し印刷の責任者である堀田さんのところへ向かった。
「すみません、ミスを出してしまって、急ぎで刷っていただきたいものがあるんですが…」
堀田さんははじめ、めんどくさそうに眉をしかめたが、あかりは持ち前の愛嬌で懐に入り込んだ。堀田さんがいつも吸ってるタバコを差し出し「お願いできませんか?」とダメ押しの一手。
「仕方ないなあ」「じゃあ、14 時に取りに来なよ。それまでにはできると思うから」
あかりは特大の笑顔で「ありがとうございます! 助かります!」と頭を下げた。
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無事に、再印刷された特大チラシを堀田さんから受け取り、車に積み込んだ。西畑はまだ暗い顔をしたまま助手席でうつむき、つばめ屋の紙袋の手持ちをぎゅっと握っていた。ネクストドラッグまでは車で50 分ほど道のり。あかりは道中、「私も新人の頃は失敗だらけだったんだよお」と、過去の失敗談を次々と披露した。そして「ミスしない人なんていないんだから!大丈夫。私がいるからっ!」と、できるだけ明るい調子で話し続けた。
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ネクストドラッグに到着した。あかりの頭にオノさんの怒鳴り声と、過去の怒鳴り合っている大人たちの記憶がリフレインする。あかりはそれを追い払うかのように「ふーーーー」っと長く息をはき、ジャケットを羽織る。西畑と店内に入った。
近くにいた店員にオノさんの名前を告げると、バックヤードへと通された。少しして、オノさんがやってきた。そして、説教がはじまった。「いつも営業の田村くんには言ってるけどさあ」「こういうことがあると困るんだよ」「分かってる?」
ガミガミと怒る小野さんに、 あかりと西畑は、何度も「申し訳ありません」と頭を下げた。あかりは自分の手のひらを強くつねりながら、この状況を耐えていた。小野さんの怒りは次第にトーンダウンし、「じゃあ、まあそういうことで」と話が終わった。
西畑はやっと終わった…と安堵していると、あかりは「迷惑でなければ、販促キャンペーンの準備をお手伝いさせてください!」と申し出る。小野さんは「いやあ...別にそこまではいいよ」と予想外の申し出に戸惑うが、あかりは「私どものせいでキャンペーンの準備が遅れてしまったので。迷惑でなければ手伝わせてください!」と食い下がる。
結局、あかりと西畑はネクストドラッグの店内でキャンペーンのポスター張りや装飾を手伝った。西畑はセンスがよく、出来上がった店内装飾は見事なものだった。無事明日からのキャンペーンの準備も終わり、小野さんの表情も和らいだ。
「いやあ、助かったよ」「むしろ、今日2 人が来てくれたことで早く終わったかもしれない」とニコニコで店内のアイスを2 つ買って渡してくれたほどだ。
あかりは「今回は本当に申し訳ありませんでした。このようなことがないよう、社内でしっかり共有させていただきます。今後とも東海プリントをよろしくお願いします」と小野さんに頭を下げ、車に乗り込んだ。西畑は、あかりの振る舞いに感心しつつ、合わせて頭を下げた。
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ネクストドラッグからの帰り道。あかりは「やー、お疲れ様!」と軽い口調で西畑に声をかける。「災難だったね。ま、でも、アイスももらえたし!」と、今日あったトラブルを軽く受け流すように振る舞う。西畑があまり気にしないよう、あかりが明るく振る舞っているのを感じ、西畑は何とも言えない表情で「はい...」と答える。
「伊藤先輩は何も悪くないのに、本当にすみませんでした」
「いいよ、いいよ。もう、十分反省してると思うから、そんなに謝らないで。西畑さん、できる新人だって評判だから。1 回の失敗でダメなやつなんて思わないからね。ま、これからは何か困った時があったら、1回相談してほしいかな!」
今度は「はい!」としっかりとした返事をする西畑。
「小野さんもアイスをくれたりして、嫌な人ってわけじゃなかったですね」
「そうだね、人間、余裕がなくなっちゃうとあぁなっちゃっても仕方ないのかもしれない」あかりは遠くを見ながらアイスをかじった。
そして、明るい声で「あー、今日はこれから飲み会かあ。飲み会って気分じゃないな~」とふざけた調子で言った。今日はこれから、別の取引先である石原物産との飲み会がある。
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石原物産との飲み会は大衆居酒屋で開かれた。あかりは「気分じゃない」と言っていたわりに、石原物産の人と楽しそうにビールを飲んでいた。
「谷崎さん、最近ゴルフコンペで優勝されたって聞きましたよお!」
「梅田さんのお子さん、もう歩けるようになったんですか!?」
飲み会は盛り上がり、お開きとなった。あかりと西畑はちょうどよく陽気になった石原物産の人たちがタクシーに乗り込んでいくのを見送った。そしてあかりは顔を真っ赤にした西畑に「今日は本当にお疲れ様! 気を付けて帰るんだよ」と行って、西畑をタクシーに乗せた。西畑が乗ったタクシーが見えなくなると、あかりは小雨が降り始めた夜道を一人で歩いて帰った。
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あかりは一人暮らしをしているマンションに帰宅した。鍵を閉めた途端、今まで見せていた朗らかな表情がさっと消える。目は死んだ魚のように光を失い、スイッチが切れたかのように、持っていた鞄が垂直に床へ落ちる。鞄を手放した左の手のひらには、説教を耐えるのにつねった跡が赤黒く残っていた。あかりはしばらくぼーっとした後、ふらふらと部屋の奥へと進む。
部屋は乱れきっていた。カウンターキッチンのシンクには洗い物がたまり、ソファーには洋服がだらしなくかけられていた。テーブルには空のペットボトルやスナック菓子のゴミ、メイク道具、何か月も前に届いた手紙が積み散乱していた。
ぐちゃぐちゃのリビングを通って、あかりは怪しい青白い光を放つ部屋へと吸い寄せられていく。青白い光を放つ部屋に入ると、机の上には立派なパソコンが置かれていた。あかりはそのパソコンの前に座り、ヘッドフォンを装着する。そして、慣れた手付きでマウスとキーボードを操作し「配信」ボタンを押した。
「みなさん、こんばんは。くじらNo.1972 です」と仕事中の声とは違う落ち着いた声。あかりには会社員とはまた別の顔があった。くじらNo.1972というのは、あかりがYouTube上で名乗っている名前だった。くじらNo.1972 はYouTube 上に歌ってみた動画を投稿したり、歌を歌うライブ配信を行っていた。チャンネル登録者数は1 万人230人。
くじらNo.1972 が挨拶をすると、画面上には「こんばんは~」「今日も待ってました」「お疲れさま~」とコメントが一気に流れる。「とんちゃんさん、こんばんは」「アキラ55 さん、こんばんは」とコメント一つ一つに返事をしていく。あかりの顔は会社の居るときとは違う、リラックスした表情だった。
「今日はちょっと遅くなってすみません。みなさんはどんな一日でしたか? 私はもう、散々な一日でした。今、名古屋は小雨も降っていて、今日みたいな日は、この曲が歌いたくなります。」
そう言いながら、引き出し式になっているデスクの下部を引っ張ると、あかりの目の前にキーボードが出てきた。あかりは鍵盤の上に優しく指をのせながら歌いはじめた。
あかりが歌い終わると、拍手の絵文字が画面上に並ぶ。あかりにとって、歌っているときが唯一、自分らしくいられる時間だった。人前で弱音を吐けないあかりにとって、歌を歌うことは唯一、自分の弱さを吐き出せる行為だった。
「さあ、続いての曲は…」あかりは歌を歌うごとに、心がほどけていく感じがした。
*
翌日もあかりはジムへ行き、誰よりも早く出社した。今日もいい人ごっこが始まる。
青白い顔をした西畑が「おはようございます~」と隣の席につく。
「西畑さん、おはよう。昨日は大丈夫だった? 結構、顔が赤くなってたから」
「なんとか...大丈夫です」西畑は青ざめた顔で答える。
そこに営業の田村が現れた。
「昨日のことでちょっといい?」不機機嫌そうな表情を浮かべている。
「はい」あかりは朗らかな笑顔を崩さないが、なんでアンタが不満げなんだよと思った。
「俺、昨日は大事な商談があって出張してたのに。何度も電話をかけてこないでくれる?どうにかなったんでしょ? そっちでどうにかできることなら、チャット入れてくれりゃいいから」
あかりは「すみません。私も焦ってしまって...」と頭を下げる。
「西畑さんもさー、あれくらいの変更、できると思ったんだけどなー」
田村は西畑に矛先を向ける。こいつの頭の中では西畑さんのミスになっているのか。本当につくづくクソみたいな男だ。
あかりは左の手のひらを強くつねりながら
「いやあ、新卒にそれを求めるのはちょっと...」とやんわりと西畑をかばう。
西畑は「すみません...」とさらに顔を青白くさせる。
田村は2、3言いたいことを言って去っていった。あかりは去っていく田村の背中を思いっきり蹴りあげてやりたい気持ちを我慢し、西畑に「ま、社会人ならこういうこともあるね!」と笑顔をみせた。
*
その日の仕事は忙しかった。前日、ほぼ1 日かけてミスの対応に当たっていたため、あかりの机の上には大量の仕事が積み上がっていた。あかりはその日、猛烈に仕事をこなしていった。
なんとか1 日を終え、あかりは疲れた顔で電車に乗っていた。スマホでSNS を眺めていると、あるニュースが目に飛び込んできた。
《【今世紀最大規模】音楽オーディション番組「BLUE STAGE」開催決定!》
今を時めく音楽事務所《BLUE OCEAN Entertainment》と、人気オーディション番組の生みの親、プロデューサー《冴島アキラ》がタッグを組んだ、今世紀最大規模の音楽オーディション「BLUE STAGE」の開催が決定!
今回のオーディションは、冴島アキラ氏が5年もの企画や製作期間を投じて完成したシステムで、なんと番組の制作費は80億円。今回のために建設した合宿施設には、スタジオ、レコーディングルーム、作曲ブースなど、音楽に専念できる最高の設備が揃っているという。また、番組の審査員やトレーナーには、BLUE OCEAN 所属の大人気アイドル ミラク、世界で大人気のDJ YUTO、伝説のボイストレーナー 郷田、ヒットメーカー 水野伸一など、超豪華な顔ぶれが発表された。
制作発表会見で冴島アキラ氏は「音楽のジャンルは問わず、ソロ、バンド、アイドルなどどんな形での参加も大歓迎です。我々は今回のオーデイションで、既に完成されたアーティストでなく、番組が用意した最高の音楽環境で磨かれていく原石を見つけたいと思っています。私たちは様々な壁を乗り越えながら成長する参加者を見守り、その姿に熱狂していくのです」とコメントした。
《オーディション概要》
・応募期間:5 月14 日~6 月14 日
・書類審査:カバー曲とオリジナル曲それぞれ1曲ずつを歌っている動画(オリジナルソングがない方はカバー曲2曲でも可)、自己PR シート
・対象者:現在事務所やレーベルに所属していない
無所属の満11歳~満60歳
・合宿審査期間:7 月末から12 月末までの半年間
・優勝特典:契約金1 億円、BLUE OCEAN Entertainment と専属契約
詳しくはオーデイション専用サイトをご覧ください。
このニュースにSNSはお祭り騒ぎとなっていた。Twitterでは「BLUEOCEAN」と「オーデイション」が トレンド入り。「今世紀最大のチャンス!」「一流のアーティストしか所属できないBLUE OCEAN がオーデイション!?」「俺、歌の練習してこよ┗(˘ω˘ )┓三」など今世紀最大規模のオーデイションに期待する声が溢れかえった。
*
「すごいことが起こった!」「これはすごいチャンスだ!」あかりは興奮した気持ちのままコンビニに立ち寄った。あかりの夕飯は大抵コンビニだった。お弁当コーナーの前に立ち、572円の中華丼と648円の1/2日分の野菜が摂れる温玉ビビンバを見比べる。少し迷って、安い方の中華丼をレジに持って行った。
あかりはコンビニの袋をぶら下げ、マンションに帰ってきた。適当に靴を脱ぎ捨て、鞄を床に放り投げる。冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出し、テーブルに中華丼を広げながら、スマホでオーディションの記事を食い入るように見つめる。
ニュース記事に添付された12枚の写真を何度も往復し、伝説のボイストレーナー郷田やヒットメーカー水野伸一からフィードバックやトレーニングを受けられる機会に胸を高鳴らせる。
「もし、ここに行けたら......わたしの人生が変わるかもしれない」
あかりがあれこれ想像を膨らませていると、スマホに着信が入る。「お母さん」という表示を見た瞬間、あかりの心は暗くなった。声のトーンだけは明るさを保ちながら電話に出る。
「はい、あかりだけど」
「あかり? どう? ちゃんとやってる?」
母親の「ちゃんと」という言葉が引っかかる。
「うん、まあ。ちゃんとやってるよ」
「部屋は? ちゃんと綺麗にしてるの? ご飯はちゃんと食べてる?」
「まあそれなりにね」散らかった部屋とさっき食べたコンビニ弁当のゴミを見ながら答える。
「あんた、昔からだらしないところあるから。ちょっと、ビデオにして部屋を見せてみなさい」
「いいよ、ちゃんとやってるから。それより、今日は?」あかりは焦って話題を変える。
「あぁ、前に話した(親戚の)なおとくんが結婚するって話。 結婚式は家族だけでやるみたいなんだけど、親戚の顔合わせ?みたいな。お食事会をするって。その件で電話したのよ」
あかりは親戚や家族に会わなければならないと知り、目の前が暗くなる。
「6月に食事会をするみたいだから。あんた、6月の都合のいい日をあとでLINEで送っておいてくれない?」
「分かった。確認して送っておくよ」はやく電話を切りたい。
あかりの母は続ける。
「で、あんたはいい人はいないの? 最近の子は結婚しない人が増えてるみたいだけど、あかりはちゃんと結婚するわよね? 30歳までにはいい人見つけないと。そうじゃないと、もうだーれももらってくれなくなっちゃうんだから」
あかりの頭の中に、「ちゃんと、ちゃんと」という母の言葉がこだまする。今まで自分はちゃんと生きてきたと思う。ちゃんと社会のルールを守り、ちゃんと人に優しく、ちゃんと母が希望する高校や大学に行き、ちゃんと働いている。ちゃんと生きてきたはずなのに…。何が間違っているのか。なんでこんなにも苦しいのだろう。幸せじゃないんだろう。
あかりは「わ、分かってるよ。じゃあ、6月のいい日にち、送っておくから。じゃあね」と早めに電話を切った。電話を切ったあとも母親の「ちゃんと、ちゃんと」という声が頭から離れない。ちゃんと生きてきて、こんな人生なら、わたしの人生は本当にクソだ。
クソ。何のために生きてるんだ。
あかりはオーディションの記事を見つめながら、ぼんやりとSigrid & Bring Me The Horizonの『Bad Day』を口ずさむ。
「It's just a bad day, not a bad life......。
今日が辛い日だっただけで、辛い人生ってわけじゃない、かあ」
あかりの心の中に小さな炎が灯る。
そして、続きの歌詞
と叫ぶように歌った。
*
翌日は快晴の土曜日だった。あかりはベッドから起き上がり、何か月ぶりかにカーテンを開けた。部屋に光が差し込むと、散らばっている服やゴミが目についた。あかりは「よし!」と髪を束ね、大きなゴミ袋を手に取る。袋にどんどんゴミを入れていき、服はすべて洗濯してベランダに干した。
綺麗になった部屋で、あかりはオーディションに向けてやるべきことを整理した。オーディションの専用サイトを見ながら、ルーズリーフにやるべきことを箇条書きにしていく。「カバー曲の選曲、カバー曲の練習、オリジナル曲の書き直し、練習、撮影、写真撮影.....新しい服も買いに行こう。美容院も行かなくちゃ。」
*
あかりの応募までの1か月間はとても充実していた。朝の日課であるジムでのランニングも、応募時に送るカバー曲を何度も聴き込みながら走った。出勤中は誰もいないことを確認して、こっそりオリジナル曲を口ずさんだ。美容院は、インスタで気になっていた有名なお店に行ってみた。あかりの髪型は重たいロングヘアから今っぽいセミロングに変わった。家では何度も歌の撮影をし、納得がいくまで歌い込んだ。自己PRの欄はあーでもない、こーでもないと、何度も書き直した。
そして応募期間の最終日。やることリストの最後に残った、オリジナル曲「風車」の撮影を終えた。「よし!」あかりはドキドキしながら、オーディション専用サイトの”応募”ボタンをクリックした。
第2話以降の記事リンク
第2話 合否のメール
第3話 第0ステージの試験内容
第4話 一瞬の出来事
第5話 途方もない道のり
第6話 背中に羽
第7話 初めてのワガママ
第8話 ラストチャンス
第9話 2+1=3
第10話 シグナル
第11話 スキップ&ビター
第12話 雨宿り
第13話 むき出し
第14話 夢のような場所
第15話 第1ステージ フェス式審査