映画『違国日記』のものたりなさ
ヤマシタトモコ氏の作品『違国日記』が好きだ。特にヤマシタトモコ氏のファンというわけではないが、『違国日記』だけはとにかく刺さりまくって、これまでに何度も読み返している。
映画を観ているような、ある人の生活を俯瞰で見ているような感覚になる作品だ。実生活がそうであるように、登場人物一人一人が何かしらの痛みや孤独や苦しさ、そしてそれぞれの形のしあわせを持っている。たとえ架空の人のものであっても、その生々しさを知ると私の心は満たされる。
さて、原作漫画への愛はこれくらいにして本題へ。
2024年6月7日から『違国日記』の実写映画が公開された。原作を愛しているので、実写化が決まった時点で「絶対に観る」と決めていた。そして実際に観てきたので、その感想が今回の本題だ。
実写化発表から約一年、期待を超える作品になるのか、それともそれなりか、がっかりかと思いながら公開を心待ちにしていた。結論から言うと、どこか「ものたりなさ」がある映画だった。原作を愛するが故に、あのシーンのあの表現、言い回し、あのキャラクターだからこそ発せられたあの言葉、そういう私にとって重要だった部分が根こそぎカットされていたことがショックだったのだろう、たぶん。何を重要と思い、心に刺さるかなんて人それぞれだと改めて思い知った気がする。作中でも言われていたように、違う人間だからわからないということだろうか。この映画を作った人や愛する人と私は「違う人間」だから。
私は、漫画や小説など原作のあるものが映画やドラマなど実写化したときは、「確認」のために作品を観ることにしている。実写化の是非に関わりなく。(キャストや脚本などの前情報で完全に心を折られた場合は観ないときもあるが、それは極稀。基本的には観る。)
まず実写化が決まった時点で思ったことは、原作が完結したタイミングでの実写化決定だったので、原作の全体の流れを汲んで着地点もそれに倣ったものにしてくれるのではないか、という期待だった。未完のものだと、どうしても着地点が違う時点でそれは完全な別作品という感覚がしてしまうから。
キャストに関しては、私は個人的に新垣結衣さんが大好きだ。しかし、槙生にしては可愛すぎるかも、というのが一番最初に思ったことだ。槙生はもうちょっと個性的な美人のイメージだった。でも、槙生は背が高めのイメージがあるので、その辺りはイメージに合っている。あとは、私が新垣さんに対して好感を持っている理由の一つとして、口数が多い人ではない分、ちゃんと言葉を選んで発していそうなところがある。槙生は作中で失言もしているし、一言多い的なことを言われる場面もあったけれど、小説家なだけあって、言葉を選んで使う人だと思う。そこがとてもぴったりだと思ったので、実写化については割と楽しみにしていた。
続報で発表された朝役の早瀬憩さんも、初めて知る演者さんだったが、朝のイメージにぴったりのビジュアルで、期待値は更に増した。さらに、特報映像で期待値増々。満を持して観てきた。
公開してから初めての日曜日の真っ昼間、人がごった返す田舎のイオンシネマ。『違国日記』のシアターはガラガラだった。わかりやすいエンタメ性がある万人に向けた作品ではなさそうとはいえ、国民的女優の主演作なのに、ちょっと心配になった。(私的には集中して観られて最高だったが)
原作の『違国日記』はタイトルの通り、作品そのものが朝と槙生の二人の暮らしを綴った日記だ。物語中のキーアイテムでもある。日記というものは事実というより、その時感じたことを書き残すものだから、原作ではモノローグがとても多い。しかし、映画ではそのモノローグはすべてカットされていた。
モノローグが多いと独りよがりっぽいというか、主観的というか、ポエチックになってしまう弊害はあると思う。だけど、私はこの物語は朝と槙生の日記だと思っていたので、正直とてもがっかりした。
モノローグ同様に、原作で出てくる槙生の書く詩や小説の一片、それと重なる場面などはすべてカットされている。おそらく制作者サイドは言葉で説明したり主観的な独白などをすべて排除して槙生と朝の暮らしを淡々と映像で見せることに徹したのだろうと思う。意図的に。こういうのは好みだとは思うが、その時点で原作の物語としての雰囲気は失われてしまい、私にとっては違う物語になってしまった。地続きではあっても違うもの、これぞまさに違国。
二時間とちょっとであの数年間をまとめるのは、確かに難しいのだろう。なので、説明や登場人物の要素などを削いで、原作をなぞるのではなく、同じことを別の角度で表現すると決めたのだろう。そのために私が好きな部分はことごとく切られてしまった。朝が事故から時間が経ってから両親を失ったことを実感して泣く、その悲しみを槙生と分かち合えないことの辛さ、ラストの槙生と朝の「愛してるじゃ足りない」のくだり、槙生が朝の高校卒業に向けて書いた詩などなど、全部なくて残念だった。
原作ありきではなく、純粋に映画としてみた場合はどうだろう、と考えてみたが、おそらく雰囲気は好みだが、原作を知らない場合は説明無しで一瞬写っただけのカットなどから情報を読み解くのが難しい気がする。やはり原作のような刺さり方はしないだろう。
例えば、孤独や静寂の形は人それぞれ違うということ。原作では朝の孤独は砂漠という形をとっていて、ことあるごとに砂漠で暮らすことについて触れている。その他、えみりの孤独は浜辺の波打ち際であり、しょーこの孤独は爆音でミラーボールが回るクラブで、同じ時代を生きる同世代の彼女たちでもこれだけ違う。違う人間だから。尺の関係でえみりの孤独の形にまで触れられないこと(わかる)、しょーこを登場させることが難しいこと(わかる)、朝の孤独は暗闇(解せぬ)という感じで、この辺りの描写がとっても納得がいかない。CGでリアルな砂漠を背景にしたりしたら、Zoomの背景のようなアホみたいな感じになっちゃうからだろうか。それとも、原作にはない「怪獣のバラード」が砂漠の象徴だったのかな。
それから、槙生と実里の確執について。この部分は原作でも度々槙生サイドからも実里サイドからも描写されていた。決定的な何かが起きたわけではないが、少しずつ壁が出来上がってしまったのだろう。原作で朝に実里を嫌いな理由を聞かれても、槙生は頑なに答えなかった。答えない理由がはっきりとあったから、確固たる信念のもと答えなかった。私は槙生が答えなかった理由に共感できたので、簡単に理由を語らないところは割と重要と思っていた。しかし、映画では一度は朝から質問されて拒絶したものの、後に朝との関係性が近づいたことの象徴のように、昔姉さんにあんなことされた、こんなことされたとペラペラ話し始めてしまったので、心底がっかりした。
また、朝が「目立つことって悪いこと?キャラじゃないっていうか……」と悩んでいた場面でも、原作ではもつが「私はキャラじゃないからって言って後悔したよ」と話してくれたこと、家族じゃない大人が言葉をかけてくれたことは朝にとってとても大きいことだったように思う。が、これも映画ではカットされていた。しょうがないけど、もつの存在自体がカットされていたので。でも、そこは醍醐や笠町くんでもいいからしてほしかったと思った。また、このくだりで醍醐と槙生と朝で「探しものはなんですか♪」と歌うほのぼのシーンがあったが、あれ、朝の世代の子が大人が歌い始めた井上陽水にすぐ乗っかれるものだろうか。知らないんじゃないか、と思った。TikTokとかでリバイバルヒットして高校生に流行ってたりするんだろうか。それとも米津やジャスティン・ビーバーの曲がが使えないだけか。
さらに、実里の日記の存在を朝に明かさずに槙生が保管していた件について、映画ではぽろっと笠町くんが朝に暴露していた。笠町くんは超絶空気読みなので絶対にそんな失言はしない……と思う。その他にも、このキャラクターはこんなこと言わないし、こんなことはしないというところは結構あった。槙生は朝に遺体確認させて横で突っ立っていることは絶対にないし、朝が勝手に買ったMacBookは返品するだろう。朝が槙生の存在を当てずっぽうでも気軽に母とは言わないと思う。
あれこれ原作と比較して納得いかない部分を述べましたが、俳優さんたちの演技は良かったと思います。良かったと思う分、笠町くんや塔野弁護士などもう少し彼らの葛藤や存在感を描いてほしかったし、せめて槙生と実里の確執や朝が父親や母親に抱く複雑な感情は映画でも取り扱ってほしかった。どの登場人物の感情にしても私にとってはものたりないものでした。また、あの程度の触れ方なら三森ちゃんはいらないし、遠吠えするのも千世ちゃんじゃないんだよな。医大入試における女性差別と留学枠決定時の男尊女卑じゃスケールも違いすぎるし。
もちろん良いと思ったところもあったのですが、今回はもの足りないと感じた部分について吐き出しました。原作への愛ゆえですが。概ね高評価の感想がほとんどなので、敢えて原作ファンとして物足りなかった部分にスポットを当ててみました。
あ、朝が劇中に歌う「あさのうた」はチャットモンチー味があると思ったら、橋本絵莉子さん作の歌でしたね。エンドロールで見て、やっぱり!と思いました。
あと、今回の映画で私は長年「田汲」のイントネーションを誤解していたことに気づきました。「斎藤工」のイントネーションだと思っていたら、違ったみたいです。