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言語&法&貨幣
言語・法・貨幣と「人文科学」
2 人間の本性とは(2008・6・2)
福沢諭吉の肖像が印刷された紙切れは、物理的には吹けば飛ぶような実体である。
だが、それは1万円の価値を持つ貨幣であることによって、確実に私の歩みを止めさせる。
1万円札が飛んでいった家の庭の柵は、物理的には何の障害にもならない。
だが、法律上の所有権の範囲を示すことによって、確実に私の侵入を防ぐ。
家の人が発した大声は、物理的には空気の振動にすぎない。
だが、それは「泥棒」を意味する言葉であることによって、確実に私を庭から追い出す。
貨幣と法と言語ーーそれらは価値を持ち、権利を与え、意味となる。
それだからこそ、小石につまずくよりも大きな反応を私から引き出すのである。
私は1万円札を見て腰をかがめ、柵を前にして立ち止まり、「ドロボー」という声を聞いて走り出す。
もちろん、貨幣である紙切れ、法律上の境界線を示す柵、言語としての音声の物理的な性質をいくら調べても、なぜ私がこのような反応をするのかを明らかにすることはできない。
価値も権利も意味も、自然科学の対象にはならないのである。
ここで生命科学者から異議がでるかもしれない。
貨幣や法や言語の物理的な性質から、なぜそれらが価値を持ち、権利を与え、意味があるのか分からないのなら、逆にそれに反応する生命物質としての私の身体、特にその中の脳細胞を調べればよいのではないか。と。
近年の遺伝子研究の進展は驚異的である。
それは周知のように、親から子に伝わる遺伝子が、人間の能力や性格や行動に決定的な影響を与えることを明らかにしている。
一卵性双生児の研究は、攻撃性や道徳心や知能水準などの8割近くが、遺伝によって説明できると報告している。
養子に関する研究の中には、育ての親の教育投資や文化環境は、子供の人格形成に長期的には大きな効果をもたないという報告さえある。
好奇心やアルコール依存症などを左右する遺伝子さえ特定化され始めているという。
事実いま、人間に関する知識はすべて遺伝学、さらには分子生物学に還元されるべきだと主張する社会生物学や進化心理学が、大きな影響を持ち始めている。
人間とは社会的生物である。
長い進化の過程の中で、互いに協力して生活するのに有用な遺伝子をDNAの中に多数蓄積してきた。
その遺伝子によって脳の中に書き込まれた能力や性格や行動の総体こそ、「人間の本性」に他ならないというのである。
やさいい経済学 21世紀と文明 岩井克人より引用
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