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死にかた論

今日、予約していた「死にかた論」佐伯啓思 著 新潮選書を東大阪市立図書館で受け取り、第1章と第2章の途中まで読みました。

死にかた論

まえがき から

現代社会では、「死」はもちろん「死に方」さえ視界から排除されている。
「死の意識」とは「死生観」にほかならないであろう。
だが、現代社会では「死生観」などというものもまったく見えなくなている。
もともとあらゆる文化が、それなりの死生観をぼんやりとであれもっていたように、日本には日本の死生観(らしきもの)があった。
とするならば、薄れゆく「死生観」を前にしながらも、日本にあった死の観念を手掛かりにしつつ、今日の「死」や「死に方」について論じることはできないのだろうか。

ということで、
第1章 安楽死という難題
 家族だけはダメなんだよ!
 ワシヲコロセ
 日本の家族主義
 確定していない近代社会の死生観
「生」と「死」の境界線

頁32~33から抜粋・引用・紹介
(安楽死)そして、その罪に関する免罪をいっそう制度化したのが、(プロテスタントの強い)オランダやスイスであった。
本人が協会のメンバーになれば死は合法化されるし、医者が医療行為の延長線上の判断で死を選択すれば、それはまた合法的である。
近代的個人主義や医学的合理主義を持ち出せば、罪の意識に対する幾分かの免罪にはなるであろう。
 個人の自己決定という大義、そして医療の専門家の判断という科学的客観主義、この二つは、西洋近代の合理主義そのものであり、欧米のいくつかの国や州では、死にぎわの大問題をこの近代的合理主義でもってなんとか乗り切ろうと試みているのだ。

 この合理主義によって家族や友人がもつであろう罪の意識が減免されるかどうかは定かではないが、確かなことは、その近代合理主義に救いを求める欧米でさえも、安楽死にはどうしても釈然としない思いが残ってしまう、ということなのである。
 徹底した個人主義や自己責任論と、医学的・専門的客観主義を合成してみたところで、すべてが見通しよくなるなどというものではまったくない。
 つまり、近代的な合理主義であらゆる物事を処理しうるとみなした西洋近代社会においても死生観は確定していないのである。
 ましてや、借り物の西洋近代合理主義を即席に輸入した日本で、ただ戸惑いと情緒的な反応の支配のなかで議論がうやむやになってしまうのも、残念ながら当然といえば当然であろう。

<略>
 21世紀にはいって、寿命が大きく延び、医療技術が恐ろしく進展した。
実はこれらすべて近代合理主義の達成した大きな成果である。
 生を可能な限り延長する、という今代社会の価値が、われわれの関心をもっぱら「生」へと集中し、現代医療にみられるように、「死」を遠ざけ、「死」の危機から「生」救い出すことだけが現代医療の職業的な役割になった。
 ところがまさにその結果として、われわれは容易に死ねなくなり、「生」と「死」の境界線は曖昧になってしまい、生と死のはざまをさまようようになってしまった。
 生き延びることよりも、いかに死ぬかこそが逆に切実な問題になってしまったのだ。
 安楽死の問題も、このような逆説のなかで生じていることをまずは、知っておかなければならない。

ということで、この本のさわりの部分を紹介しましたが、
第8章 「死」とは最後の「生」である
まで、しっかり読んでいきたいと思います。

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クラちゃん
嬉しい限りです。今後ともよろしくお願いします。