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七回忌に詠んだ短歌



【短歌の解説】

 自作の短歌に対して説明を加えることには大きな抵抗がある。なぜなら短歌など芸術表現は観るもの聴くものにゆだねられ自由な解釈があってしかるべきという考え方があるからだ。しかし私はそのルールを敢えて自分で破りここにその解説文を書こうと思う。なぜなら、自分自身が詠んだ時の思いを忘れてしまうことを防ぎたいからだ。

 私は京都で生まれ育った(京都といっても洛外である)。実家とおばあちゃんの家は隣り合っており実の両親以上におばあちゃんに育てられたと言う実感がある。おばあちゃんは強くて繊細で優しい人だった。そんなおばあちゃんに寿命はない、きっとずっと生きているんだろう、そう子供の頃は本気で思っていた。

 今回紹介する短歌はそんなおばあちゃんの七回忌の日(24.07.27)に詠んだものである。

1. 粟田口踏みしめる土落ちる汗 昔の者と同じぞと望む
2. ほーほけきょ夏の始まりあと祭り 姿なくとも声きこえけり
3. 飛び石を渡りしものにくべつなし 老いも若きも男女も犬も

まず①について。
 これは初夏の日差しが強い中、実家から旧東海道を歩き粟田口(九条山)を超え、市街を望んだ時に詠んだ短歌である。今は亡き数多の人々が様々な思いを胸にして汗を流し土を踏みつつこの景色を見たと思うとただただ私は感動するといったことを詠んでいる。粟田口は京の玄関口であり、ここを汗を流して超えた人は、京に行く人・京から去る人など様々いたはずだ。また、粟田口は昔処刑場もあった場所でもある。様々な事情を抱え中には根も葉もない罪を着せられてこの世を去った人たちもいたのだろう。その人たちはここで人生の最後にどのような思いでこの景色を見たのだろうか。京都と京都外の境界、生と死の境界としての粟田口。ここには決して一言で言い表すことができない無数の想いが堆積している。
 もちろん、おばあちゃんもここを越えたことがあったはずだ。その時どんな気持ちだったのであろうか。きっと京阪電車(路面電車)に乗ってここを越えたのかもしれないが、その点は然程重要ではない。自分の肉体をもってその地を歩くことで過去のおばあちゃんの気持ちに対して想いを馳せることが重要なのである。
 最後に、この短歌で文章上意識した点を記載する。それは粟田口での景色をあえて文章として”書かない”ということだ。どの様な景色なのかを一度言葉にしてしまうとそこには限定的な意味が生ずる。直接書かないことにより行間の隙間に無限の可能性が広がることを意識した。また、「望む」は単に景色を見るという「望む」ということだけではなく、今亡き人とこの場所で同じ身体性を持って心通わしていることを期待するという二重の意味を持たせている。

次に②について。

ほーほけきょ夏の始まりあと祭り 姿なくとも声きこえけり

 ウグイスの鳴き声から始まる短歌。ウグイスは春を告げる鳥である。しかしその後には、「夏の始まり」と続く。ここでなぜ?という違和感が生じる。実際に坂を登っている最中にウグイスの鳴き声を聴いた。辺りを見回したがそのすがたを見つけることはできなかったのである。短歌に戻るとその後「あと祭り」と続く。「夏の始まり」と「あと祭り」というのは言葉が対となる様に意識して配置している(始まりと終わり)。もちろんこの「あと祭り」とは祇園祭の後祭りのことであり、今は夏の始まりの季節であり、祇園祭の後祭りはもう終わってしまったということだ(後祭りは後の祭りである)。ここには祇園祭の後祭りが慣用句の『あとの祭り』の元になったという事実が反映されている。そして最後に「姿はなくとも声聞こえけり」で本短歌は締めくくられる。なんの声が聞こえたのだろうか?主に想定する対象は3つある。一つ目はもちろんウグイス。二つ目は祇園祭だ。では、三つ目はなんだろうか。
 私は今この瞬間京都にいてこの地を歩いている。祇園祭の後祭りはもう過去のことだが、ウグイスの姿なくとも今実際にその鳴き声が聞こえたことと同じ様に、祇園祭の後祭りの賑やかな音をありありと聞くことができる。目の前にないものの音を聞くこと。それはこの暑さによる妄想なのではなく、自分の心のうちから記憶と共に呼び出される音を聴くことなのかもしれない。夏の始まりの季節はおばあちゃんが旅立った季節だ。季節外れのウグイスの鳴き声におばあちゃんの元気な声を重ね、その声を私はありありと思い出すことができる。姿は見えずともその声は私に今も届いているのだ。ほーほけきょ。

最後に③について。

飛び石を渡りしものにくべつなし 老いも若きも男女も犬も

 この世に生きる全てのものは皆死にゆく運命である。年老いた人も若い人も、男も女も、人間だけではなく犬や猫や鳥や虫などあらゆる生き物はすべてその運命から逃れることはできない。
 私は鴨川デルタを遠くから眺めるといつも何故こんなにもここは多幸感に溢れているのかと疑問に思っていた。それはなぜか。私はここに等しく自由で平等な精神が溢れているからだと思う。飛び石を飛ぶ時に人は無心になる。そして飛び石を飛ぶ人に男女も老いも若さも、人か犬か…などは関係がないのだ。人類の文明は川の元で生まれたという。そしてどんな金持ちだろうが身体が丈夫な人であろうが皆等しく川を渡りこの世から去る運命なのだ。その変えようがない運命の前で生きとし生けるもの全ては平等であり、今この瞬間を無心で生きることこそ大切なことなのである。私が思う鴨川デルタの多幸感の秘密は、この鴨川デルタが発する教えに他ならない。 
 私はおばあちゃんからもらったこの命を燃やし無心で鴨川を渡り、中洲に立つ。どこからともなくやってきた風を背で感じる。見上げると夕暮れの空にトンビが円を描いていた。

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