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プランB

こどもの頃の「将来の夢」は?

幼稚園児のころは「幼稚園の先生」、その後は「絵を描く人」や「デザイナー」など。
父の影響で「建築」を進路に選ぼうとしたこともあった。

「これ!」と決めて目指したひとつの職業はなかったが、いつからか、ものを作ることに興味を持ちながら私は大人になった。

就職氷河期といわれる時代、私は社会人になった。
大学ではデザイン全般を学んだが、アパレルの販売員として就職し、プレス業などを経験してから方向転換。
DTPを学び直し出版社などに勤務後、現在はフリーランスのエディトリアルデザイナーをしながら、時々、裂き編みなどの創作活動をしている。
こう綴ってみると、こどもの頃の夢は叶ってるのかもしれない。

けれど、いつも、「いつか私もこういう大人になれるのだろう」と心の奥底にあったのは「母」の姿だった。
銀行員だった母は23歳で結婚、24歳で私、26歳で妹を産み、幼少期は専業主婦として子育てと向き合ってきた。
もともと英文タイプなどの技術があったからか、子育てが少し落ち着くと当時黎明期だったパソコンのスクール(ワープロだったのかも?)へ通い、私が小学校4年生になったころには自宅で出版物のテキスト入力の仕事をするようになっていた。
ただ、仕事をしているといっても基本的に家にいる時間が多く、家に帰ればいつでも「おかえり」と迎えてくれるような環境で、私は育った。

こどもの頃はそれが当たり前と思っていて気づかなかったことだけど、母はこどもが好きで子育てに向いている人だ。
洋裁が得意で姉妹の着る服は手作りすることが多く、こどもに履かせる靴で気に入ったものがなければ自分で染色することもあった。
料理好きで、いつも手の込んだお弁当を楽しそうに作っていた。
引っ越しと転校が多かったためPTAに参加する機会も増えてしまったが、それも含め子育てのいろいろを楽しんでやってきたようだった。
今でも姪(母にとっては孫)の洋服など、いそいそと作っている。
私の友人のこどもと対面するときも嬉しそうに近づいていき、街で困っていそうなお母さんを見つけると真っ先に手を差し出し……とにかく、周りにいるこどもをよく観察している。

そんな母を見て育ったからか、私もいつか母のような子育てを……と、39歳まで過ごしてきた。

中高生のころから雑誌や書籍を読みふけり今でも変わらず「本」という存在が好きだから、現在の仕事は自分に合っていると心の底から思うけど、20代でアパレル業界からキャリアチェンジした理由のひとつは、エディトリアルデザイナーであればいつかフリーランスになり自宅で仕事ができると思っていたからだった。

そしてその先には、自宅で仕事と子育ての両立をする……そう漠然と、しかし当たり前のように、そんな未来があると考えていた。

しかし、39歳になった数日後、私と夫は夫婦ふたりで生きていく現実を受け入れることとなってしまった。
3年間、立ち止まることなく高速で続けてきた不妊治療では、おそらく現代の医療技術で出来うることすべてを行ってきたけれど、こどもを授かることはなかったから。

それから1年。
こどもがいない生活を受け入れることは、やはり簡単ではない。
今でも時々、心に空いた穴に風が吹き込んで寂しくなることもある。

それでも、毎日楽しく生きていたいと思うし、人生の最期には「いい人生だった!」と笑っていたい。
39年間思い描いていた人生設計「プランA」を歩むことができないのなら、こどもがいなくとも幸せだと思える「プランB」を設計しながら歩いていきたい。
今はその「プランB」とは何なのか、模索している最中だ。

自分達のこどもはいなくとも、「親」という形ではなくとも、「ひとりの大人」として誰かのこどもと関わる機会は持っていたい。
そしてやっぱり、家族との「暮らし」を丁寧に積み上げていきたい。
そんなことを考えるなか、仕事との向き合い方も、自分の中で大きく変わったような気がする。

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このnoteでは、そんな私の不妊治療の経験談から日々のなにげない暮らしのことまで、今の私だから書けることを綴っていこうと思います。



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