![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/132558293/rectangle_large_type_2_53dab536b86c5fced6b012c790974130.png?width=1200)
歩調
こんにちは、親子丼です!
もう3月!せっかくなので、昨日に続いてもう1本書きます。
調和大好きの優等生っぽいテイストです。
はあ、なんでいつもこうなってしまうんだ。
あしからず!
昨夜、寝る前に友人と暇電をした。
暇電というのは、大した相談ごともなく、暇だからという理由で、だらだらと話す電話のことだ。
私は電話、特に暇電が苦手だ。電話では常に相手の忙しさや反応を気にしてしまう。目的がある電話ならまだしも、ゴールが見えない中相手を気にし続けるのは、楽しさよりもストレスが勝つだからだ。
昨日話した友人は、生活スタイルや住む場所、性格も、私とは真逆な人である。
私が首都圏にある実家の、ふかふかしたソファで話している間、どこかの田舎の一角で、薄い毛布を頼りにひとり話していたのだと思う。
私としては、そんな相手とこれほど心置きなく暇電が出来る関係になることは奇跡に近い。
実際この関係になるまで、何度も喧嘩したり、「縁を切ってやる!」と言いながら、結局何回も会ったり、親には言えないやんちゃをしたり、話し合ったりしている。
一緒に仕事するでもなく、生活上必要不可欠な関係性でもない、いわゆる悪友(あくゆう・悪いことを共にする人。また、特に仲のよい友人を親しんで呼ぶ言い方)と、なぜそこまで向き合い続けたのかは謎だが、ここまできたのは、互いの歩み寄りの努力の賜物である、と私は思っている。
私たちの生活の娯楽や、人生ヒントになるコンテンツが世の中には溢れ返っている。
動画、音声ラジオ、文章など。
この中で、1番受け手の能動性が必要になるのは文章だと私は思う。
能動性。私の中で言い換えれば、それは歩み寄りだ。
私もYouTubeを観ることはよくあるが、製作者は大変苦労している!と、つくづく感じる。
カメラアングルや試聴時間、光の調整、字幕付け、音付け…。
数え切れないほどの工夫を凝らしている。そのおかげで、受け手は動画を観ればたいていの情報が目から見てすぐにわかる。倍速という短時間で視聴できるほどだ。
一方、文章。こちらも作者はあらゆる工数と工夫をかけて創作する。イメージと語彙のマッチング、文章の添削など。
こちらも涙ぐましい努力はあるが、読み手も努力が必要だと感じる。
まず、言葉から情景を思い浮かべる想像力。比喩表現が何を示すのか考える理解力。作者の言いたいことを読み取る読解力。言わずもがな語彙力。
「文章を読む」という、ただそれだけの行為で、こんなにも思考させられる。そのため、読後に自分なりに考える、という余白も自然に持つこともでき、思考力も深まる。
どちらかの良し悪しの話ではない。というか、私は、そもそもそれを判断できる偉そうな立場にいない。
でも私は文章が好きだ。大好きだ。
この際ズバッと言い放つと、なんて素晴らしい媒体なんだろう!って思ってる。
先日、私が所属しているNPO法人の代表と2人で飲んで話したとき、様々な大手メディアに取材されているインタビュアーのプロである彼から、「なんで記事にこだわるの?」と聞かれた。内心ドギマギなはずなのに、「文章にはその人の本質が1番に出るからです」と即答していた。
文章を書き、読んでもらう。もはや会話である。
想像するのは大変だけど、そのおかげで価値観が違う人の感覚や、時を超えた古代の人と、共通の時間を過ごさなくとも、通じ合うことができる。
周りからは安定に理解されることも少ないが、もう慣れた。とにかく、私個人としては、すさまじくロマンがあって、目に見えない人と通じ合える瞬間は、控えめに言って非常に胸が熱くなる。
人とともに生きる。それは互いの歩調を合わせることだと私は思う。文章には、思考力以上に、そういうあたたかさがあって、そのぬくもりが豊かだと私は感じる。
昨夜の暇電相手も、タイプが違うゆえに楽しみ方は違えど、同じく言葉が好きな人なのだと私は思う。
だから、価値観がまるで違くてもそれを楽しめる。お互いについて考えることを進んでするから、心地良いと感じるのではないか、と思う。
私の文章を好んで読んでくれる方はみな、それぞれ思考してくれるため、感想を寄せてくれることもある。本当に嬉しい。
この作品も、続編が楽しみだとコメントをくれた、また別の友人の支えによるものだ。
忙殺される日常で、その余白の価値を常に感じるのはむずかしい。
まるでその風のように、ゆるゆる、ふわっと、自分の人生を包むように、生きていく中で楽しめたらと思う。