母の悲しみ
母は悲しかった。息子にこの気持ちはわかるまい・・・
多くのお母さんたちもそうであるように、私も子どもが生まれてからは寝坊なんてさせてもらえないし、食事だっておトイレだってゆっくりさせてもらえないし、お化粧なんて数億光年の彼方に置き去りにされてる。それでも笑っていられるのは、子どもたちが目の前で泣き笑いしながら生きてるから。これが母目線の子育て。
一方で、お母さんじゃなきゃヤダ!の時期を抜けてしまった息子にとって、今や一緒にいたいのはお父さん。息子が一人で遊んでいるところへ私が近寄ろうものなら「来ないで!お母さんじゃない!お母さん、ヤダ!」と時に涙目で訴えられてしまう。あ、そうですか、と素っ気なく返事することが、私のできる唯一の抵抗。本当はこっちも涙目になって「ヤダ!一緒に遊びたいの!」と訴えたい。今日だって早起きしてご飯作ったの私じゃん、あなたの服を用意したのだって私じゃん、朝の歯磨きしたのも私じゃん、その流れで一緒に遊ぼうよー!と。だけど、こんな気持ちは息子には分かりっこない・・・悲しい。母は悲しい。
日本語が上手になってきたこの頃は、「お母さん来ないで。ボク大丈夫だから。あっち行って、はい、どうぞどうぞ」と退場を促される始末。か、悲しい・・・時には私と二人でいても、旦那のいる部屋へ「お母さん、ボク行っちゃうよ。お母さん、一人で大丈夫ね?」と言って去ってしまうこともある。ははは、なんて空笑いして、一人残された自分の気持ちの置き場所を探すのに苦労している。
母ベッタリでいられるとそれはそれで困り、一人になりたい、と願うくせに、いざ一人にされてしまうと心がギシギシ痛むなんて、母親ってのは理不尽な生き物なのだね。振り回されて生きてくの。だけど、それが幸せでもあるの。母は悲しかった、でもね、幸せなのです。