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「線」が無い、詮なき世界。

今回はちょっと深刻で、真剣な話。

先日、杖をつき、体を大きく揺らしながら、
ぎこちなく歩く男性を街で見かけた。

「身体障がい者」

現代では、そう呼ばれるのだろう。
先天的なものなのか、それとも事故による
ものなのか…
原因はわからないが、とかく、そのように
呼ばれ、カテゴライズされるだろう。

さて、こういった人々を見かけた時、世の人
は何を思うのか。
きっと多くの人は、「彼は障がい者だ」との
認識を持つだろう。

そう、「彼障がい者だ」とは思えども、
「彼障がい者だ」とは思わないだろう。
そして、「一方、自分は障がい者ではない」
として、明確に意識しないにせよ、彼と
自身との間に「」を引くだろう。

決して、この認識が悪いことだ、改めるべき
だ、という話ではない。
至って普通というか、自然な捉え方である。
自分もかつてはそうだったし、今現在もそう
捉えてしまう瞬間は度々ある。

ただ、ここで言いたいのは、心の中でふと
引いてしまう「線」や、それにより生まれる
「円」は非常にあやふやで、明確に在るもの
ではない
、ということである。

考えてみてほしい。
若い時にいくら健康体でも、歳を取れば
腰も目も脳も衰える。

当たり前のことが、段々とできなくなる。
誰しも、時間が経てば「障がい」を抱える
ことになる。

また、考えてみてほしい。
私たちは生きていく上で、大なり小なり怪我
をしたり、病気をする。

病院に行く羽目になるかもしれないし、
何度も同じ目に遭うかもしれない。
これもまた、紛れもなく、生活を送る上での
「障がい」と言える。

このように広く捉えた時、いわゆる「健常
者」側の人間が、「障がい者」の側になる
時期、タイミングは幾らでも存在する。

両者の間に壁はなく、私たちは両サイドを
いとも容易く往来することになる。
実に、紙一重である。

現実は、「程度」の世界である。
ちょっと障がい者、まぁまぁ健常者、
微妙に障がい者、わりと健常者、etc…
そんな人たちで溢れているのだ。

「線」や「円」で、この世界は区切られて
いるのではない。

私が慕っていた大学教授の言葉を借りるが、
言うならば、この世界にはただ延々と、
グラデーション」が広がっているのだ。
何とも言えない「灰色」だらけなのだ。

障がいについてだけでなく、あらゆる領域に
これは当てはまるだろう。


この認識があまりにも不足していることで
生じている、数々の深刻な問題については、
ここではまだ、触れないでおく。

もし、次に「障がい者」を見かけた時には、
「自分は違う!」と断ずるのではなく、
「グラデーション」を思い起こしてほしい。
「彼は」ではなく、「自分も」を頭の隅に
置いて考えてほしい。

ちょっとした気づきの変化が、見知らぬ
誰かの救いになることを信じて。

それでは、また。








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