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シナリオ小話 10 無言

17歳でデザイナ・構成作家としてデビューして、フリーのプランナー兼プロデューサー、そして二流の脚本家としてちょうど20年の商業作家生活を無事に送らせて頂きました「おおやぎ」が、2007年頃からMixi等で公開していた講座連載を再構成して掲載いたします。今も脚本・シナリオを学ばれるあらゆる層のかたがご笑覧くださるなら望外の幸せです。

今回は、シナリオ上で最もよく使われる表現、「無言」について考えてみましょう。

時代的に少し古い脚本家は「無言」をト書きで表現しますし、これより新しい時代の方はカギカッコを用いて「・・・」(中点)や「……」(リーダ)や「―――」(中線)などで表現しますが、これはどちらでも結構です。脚本というのは台本であり、制作者と出演者が理解できればイイのですからお好きにどうぞ。これはまず余談でした。

さて、脚本家がわざわざセリフの「間」であるとも言える「無言」を脚本に記載するのは、言うまでもなく、それが脚本家の見る演技の一部分だからですね。

一郎「あれ? 何だっけナ」

というセリフの「あれ」と「何だっけナ」の間にどれくらいの時間を置くのかは、撮影時点で演出家さんや監督さんが指示されればよろしいので、

一郎「あれ?」
一郎「・・・・・・」
一郎「何だっけナ」

あまりこのようには書きません。
対して、一郎と花子のやり取りで、

一郎「きみはサンマが好きだっけ?」
一郎「違ったっけ」

これでは、少し脚本家の意図が伝わりにくいことになりますから、きちんと明記するようにします。

Aパターン

一郎「きみはサンマが好きだっけ? 違ったっけ」

Bパターン

一郎「きみはサンマが好きだっけ?」
花子「・・・・・・(困った顔でうつむく)」
一郎「違ったっけ」

脚本家であるわれわれとしては、上記のどちらのパターンを企図しているのか、きちんと明示するのが望ましいでしょう。
――以上は、少しお作法的な話でした。

さて、「無言」の使い方に決まりというものは特にありませんが、多くの優れた脚本家が「無言」を効果的に使っています

禎夫「キミは上海に転勤だよ」
亮二「上海・・ですか?」
禎夫「不満かね」

これでもいいんですが、亮二は突然の海外転勤命令に不満であり不安であり、何よりも驚いています、ということであれば、いっそ亮二のセリフは「無言」にしてしまった方が良いとも思えます。
亮二さんの顔(俳優さんの顔)が画面に映るのは同じことならば、そこを俳優さんの演技力と視聴者さんの想像力に委ねてしまう方が潔いですし、「無言」にしておいても、ごく小さく息が詰まるような声や、生唾を飲み込む演技が期待できます。セリフがあれば、視聴者はそういう小さな演技に目が行きにくくなります。

しばしば思春期の女子校生が部屋の中で一人、大好きな先輩のことを思い出すシーン。

 ベッドにうつぶせに寝そべる良子。
良子「・・・・・・(ニヤニヤ)」
良子「・・・・・・(うーんと考え込む)」
良子「・・・・・・(思い出したように微笑む)」
 と起き出して、クローゼットを開いてハンガーにかかった可愛らしいワンピースを確かめる。
良子「・・・・・・(ニコリと笑って小さく頷く)」

こんなシーンは、無言だからこそ面白いのだと思います。一つ一つセリフ(声)に出して、

 ベッドにうつぶせに寝そべる良子。
良子「明日は先輩とデートだわ」
良子「でも、どんな服を着ていけばいいのかしら」
良子「ああ、そうだ。この前、新しく買った服があったわね」
 と起き出して、クローゼットを開いてハンガーにかかった可愛らしいワンピースを確かめる。
良子「そうそう、これこれ。これにしよう」

こんな風にすると、なるほど何について考えているのかはよく分かりますが、じつに面白くない。視聴者の想像をかき立てる要素が何もないし、そもそも非現実的で感情移入しにくい。あなたの回りにこんなに分かりやすい独り言を言うお人がいるだろうか、と考えてみると、しらけてしまいます。

ジャック「くそう! どうすればいいんだ・・・」
 と呟きながらウロウロと歩き回る。
ジャック「どうすれば、どうすれば・・・考えろ、ジャック。どうすればいい?」
 ジャックは窓の外に非常ハシゴがかかっているのを見る。
ジャック「・・・・・・」

最後が「無言」だからこそ、視聴者もジャックの視点になって「ああ、あれが使えるかも!」と思ったりする。あるいは、彼がいかに機転を利かせてそれを用いるのか、期待がふくらむわけです。

ジャック「あれだ! ハシゴだ!」

――と言えば、彼がどのようにそれを用いて現状を打破するかはわからないものの、もう彼がそれを使うつもりでいることは分かるので、感動は半減します。

ジャック「そうだ、ハシゴだ! あれを使えば首尾よく6階へも行けるはずだ!」

――ここまで言ってしまえば、もう彼がハシゴを登るシーンがあったって、何の感動もない。

一般に視聴者は、登場人物の顔が大写しにされた時の表情を見ながら、何かセリフを言いかけてやめたり、説明が与えられない瞬間、猛烈に想像力を膨らませます。そしてその想像した内容は、往々にして大きく外れることはありません。それほどに視聴者は愚かではないからです。
脚本家の仕事は、視聴者に“自分の語る作劇内容が正しく理論的であることを釈明する”ことではありません。視聴者の理解と想像を刺激し、感動・心の動きを作り出す一種の“お手伝”をしているのです。だから、セリフによって視聴者の想像の楽しみを奪ってはいけません。
ゆえに、ドキドキするシーンの最後の締めくくり、胸の熱くなる大恋愛の締めくくりや、息の詰まる決戦の最後のワンショットは「無言」なのです。

ニュースなどでも時折見受けられますが、実に流暢に解説し論じてきたキャスターが「ん……」と口をつぐむ一瞬こそ、彼の語る陰惨な事件への語るに堪えない深い心情を伝えるでしょう。
小説などでも、優れた作家の作品を見てみると、意外にも、主人公の重要な決意や、登場人物の受けるひときわ大きなショックは、セリフでは表現されていません。地の文で「彼はあまりに大きな衝撃を受けた」とも書いてありません。
けれど読者はそれまでに人物についての理解を深めているので、むしろ作家が明示しないがゆえに、読者は「彼」が感じた大きな衝撃を当然のものとして受け取り、深く心を揺さぶられているはずなのです。

余談ですが、ゲームには事細かな演技が盛り込まれることが少ないようですので、なかなか「無言の演技」による表現が用いられることがありません。しかし、それは脚本の考え方から言えば正解ではありません。脚本の求める演技を提供するのが俳優であり、ゲームにおいては作画されたキャラクターがその心情を伝えるものでなければなりませんし、また俳優さんの代わりに声優さんがそれを息づかいなどで表現することのできる場面もあるかもしれません。

「無言」の表現は、ひとつの言い方をすれば、脚本家が「視聴者」と「俳優」の両者に“委ねる”決意の現れです。
ドラマの特別に大事なところで、「そのセリフは必要なのか?」と考えるようにし、「無言」で済ませられるようなら、その「無言」が生きてくる場面かどうかを考える、といった習慣を身に付けましょう。

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