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間違えること

外国語を学んでいるときに、その使い方を間違えることがあります。間違い自体は悪いことではありません。悪いのは間違いに気づかないか、気づいたとしても放置して固定化させてしまうことです。

文法というものは、学習者の頭の中で育つものです。これは仮説と検証という過程を繰り返すことで育っていくものです。文法を取り立てて学んでいる場合にも、文法書を読んだり先生から教わったりしたことがそのまま頭の中に取り込まれるとは限りません。これは言語学習に限ったことではなく、学習一般に当てはまることです。それから言語学習に特有のこととして、実際にことばを使っていて、見たり聞いたりしたことばから法則性を見出すことがあります。この法則性は必ずしも正しいものとは限らず、その後反例に遭遇することで修正を迫られることもあります。さらに母語以外の言語を学んでいる場合には、母語の影響を受けた形で目標言語を使ってしまうことがあります。例えば、日本語に引きずられた英語です。

こうした間違いを修正する機会は、実際にことばに触れていく中で学習者自らが気づいて修正していくのが理想的ですが、それだけでは不十分です。特に日本で日本語母語話者が英語を学ぶときにように、目標言語を実際に使う頻度が著しく低い場合には、それだけに頼ることはできません。学習者と教師との対話の中で気づきを促すようなことも必要になります。このときに教師の側として気をつけたいことは、学習者の間違いを頭ごなしに否定しないようにすることです。学習者が萎縮して、例えば英語なら英語を書いたり話したりすることをためらうことになれば、修正した知識を実際に使う機会が失われ、間違いが学習者の頭の中でくすぶり続けることになります。入試や検定試験などを受けるようなことがあれば、解答の際にくすぶっていたものが炎上してしまうこともあります。そうなればさらにその学習者は自信を失います。こうなると、文法問題集を解いたり、単語集を覚えたりするだけの、対人コミュニケーションを介さない「学習」に閉じこもってしまうことにもなりかねません。

最後に繰り返します。ことばを学ぶときに、間違いは必然です。どこかで間違いを修正することが大切なのです。

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