地獄の沙汰もお寺も神社も
「地獄の沙汰も金次第」という言葉がございますね。「地獄の裁きもお金でどうにでもなる」「閻魔様も賄賂が効く」、つまり「何でも金でどうにかなる」という意味でございます。もともとは「地獄の沙汰も銭がする」なんて表現だったようですが、江戸時代後期には現代の形になったようです。
身も蓋もない言葉ではありますが、そんな言葉が出てくる理由があるわけです。例えば日本の仏教では寄付額によって信者の扱いが違うことがあったそうですし、監獄でもお金を渡すかどうかで刑の重さが異なるなんてザラだったそうです。だから、そんな言葉が出てきたのでしょう。
コトバンクでは「仏の光より金の光」とか「阿弥陀も銭ほど光る」とか、他にも辛辣な類義語が載っていました。
思えば、小学生の頃に読んだ「まんが日本の歴史」でも、銭ゲバのお坊さんが普通に描かれていました。これはすなわち、宗教関係者が銭をゲバるのは日本史に刻まれた記録と言っていいんでしょう。「地獄の沙汰も金次第」という言葉が生まれたのは江戸時代かもしれませんが、そのような言葉が生まれる下地は長い時間をかけて作られたわけです。
もちろん、宗教関係者の中にも立派な人はいらっしゃるでしょう。でも、なかなかみんなそこまで立派にはなれない。人にはそれぞれ生活があるし、生活するにはお金がいる。できればいい暮らしをしたいでしょう。家族にひもじい思いをさせたくない、結果として銭をゲバっちゃう宗教関係者がいても、それがいいか悪いかはともかく、少なくとも仕方がないとは思うんです。
私は幸か不幸か宗教関係者となかなか会わない人生を歩んできたため、現在の宗教関係者がどれだけちゃんとしていて、どれだけ銭ゲバってるのかは存じ上げません。ただ、印象深い出来事があるんです。
観光で都内の某寺院に行ったんです。かなり大きくて立派なお寺でございまして、かなり多くの人が働いておりました。そして、場所が場所だけに、従業員よりも遥かに仏像が多いんです。ここまで多いと神々しさを通り越して圧倒されてしまいます。
しばらく見学していると、従業員や仏像の他にも、とあるものが多いと気づいたんです。賽銭箱です。
私のイメージだと賽銭箱は大きなものが正面にひとつドンとあって、みんなそこにお金を入れるものだったんです。しかし、そのお寺は賽銭箱がそこかしこにあるんです。小部屋ごとに賽銭箱があるなんて当たり前で、大部屋に仏像が何体も並んでいたんですが、各仏像前に賽銭箱があったりするんです。賽銭箱を見かけるたびにいちいち小銭を入れていては、どんな小銭持ちでもすってんてんになってしまうんじゃないでしょうか。そんな底力を某寺院から感じました。
きっと宗教とお金の関係は今もなかなか難しい問題なんだと思います。お金を巻き上げてばかりでは信者を幸せにはできない。でも、お金がないとやっていけない。そんなジレンマが形作ったもののひとつが、やたら多い賽銭箱なのかもしれません。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?