もっと名が体を表して欲しい
名前にはいろいろあります。読みやすさ重視の王道と呼ばれるものから、普通からかけ離れたものまであります。私の名前のように、漢字本来の読み方を無視する暴挙にまで出る名前だってある。
その昔、そういう暴挙方面の名前を子供につける事例がかなりいじられていました。その手の名前は「キラキラネーム」と呼ばれていた。ウィキペディアの情報ではありますが、全盛期は2000年代前半から2010年代前半とのこと。
オリジナリティをひねり出そうと頑張った結果、なかなか一見で読まれない名前に仕上がってしまった事例は昔からあったようで、そういう意味では伝統的であり、ありがちな現象とも言えます。名前で暴挙に出てしまった経験のない方だって、一生懸命がんばったのに変な結果になってしまったことはあるでしょう。それを名前でやらかして生まれたのが私のような暴挙系ネームの人間でございます。
ところで、そういう暴挙系ネームが「キラキラネーム」と呼ばれ始めた頃から、私はひとつの疑問を持っていました。「『キラキラネーム』という名前自体にこだわりが足りてないんじゃないか」と。こだわりにこだわったがゆえに読みづらくなってしまった名前、その要素が「キラキラネーム」という名前には全然入ってないんです。名が体を表していない。「キラキラネーム」自体が「キラキラネーム」ではないんです。
せめて「輝羅輝羅ネーム」にしてくれないと、キラキラが、もとい輝羅輝羅足りない。もちろん、「輝羅輝羅禰衛鵡」みたいに「ネーム」部分にまで輝羅輝羅を侵食させてもいいわけですし、「その程度じゃ手ぬるい。誰も読めなくなってこその輝羅輝羅だ」との考えのもと、「驫驪黷鸞麤鬣纜」を「キラキラネーム」と呼ばせるパターンだってあっていいはずです。それを「キラキラネーム」だなんて、「何を全文字カタカナで満足してるんだ」と軽い憤りさえ覚えたものです。
そういう面では、非常に満足している言葉があります。「晦渋」です。辞書によると意味は「言葉や文章がむずかしく意味がわかりにくいこと。また、そのさま。難解。」とのことです。
まるで驫驪黷鸞麤鬣纜を批判しているかのような言葉ですけれども、晦渋は驫驪黷鸞麤鬣纜ほどではないとは言え、ちゃんと「むずしくて意味がわかりにくい」んです。晦渋自体が晦渋さを表現している。名が体を表しているんです。晦渋という字を初めて知った時、私は「これでこそだ」と思ったものです。
しかし、今になって思うんです。晦渋の晦渋さは驫驪黷鸞麤鬣纜ほどではありません。そして、驫驪黷鸞麤鬣纜を構成する文字は現在ほとんど使われておらず、過去に使われていたものばかりです。つまり、昔は晦渋より難しい表現が今よりもたくさんあった。言い換えれば、晦渋は今より難しい表現ではないと考えられていたかもしれないんです。晦渋は、昔はそんなに晦渋ではなかった。
「晦渋は名が体を表している」とはしゃいでいたのは、私が現代の人間だったからであり、そんな姿を見た晦渋はきっと「若いな、小僧」と思っていたのかもしれません。「本当の晦渋はそんなもんじゃないぞ」と。
時代の変化によって価値観は変わる。晦渋さもまたそれは同じだと痛感させられました。
それにしても、です。この文章を書き始めたころはこんなに文字化けっぽい文章にさせるつもりがなかったんですが、一体どういうことなんでしょうか。こだわり過ぎると変なものを作ってしまう癖は不治の病なのかもしれません。