極端な経験の影響
前にもnoteで書いた気がするんですけれども、人は慣れる生き物でございます。例えば、最近は毎年のように猛暑猛暑言っており、37℃とか40℃とか、そんな気温を日本のどこかで叩き出しています。
そうなると、32℃がちょっと涼しく思えるわけです。35℃越えに慣れてしまったがゆえの感覚でございます。錯覚と言ってもいい。32℃だって、外で作業していれば熱中症をゲットできる環境のはずなんですけれども、毎年のように最高気温が40℃前後をうろついていると、「32℃が何だと言うんだ、35℃を越えてから出直してこい」なんて考えるようになるわけです。
極端な経験は感覚を狂わせるのかもしれません。となると、です。例えば私がサハラ砂漠辺りに出かけ、50℃越えの酷暑をしっかり味わって帰国したとします。そうなると、日本で「40℃超えました」と言われたところで、「まだまだだな」と鼻で笑ってしまう危険が出てくる。「風呂レベルの温度で何を言ってるんだ」と憤ってしまうかもしれない。つまり、砂漠暮らしという極端な経験によって感覚がおかしくなったわけですね。
繰り返しますけれども、極端な経験は感覚を狂わしかねません。そんな極端な経験なんてしなきゃいいんですけれども、これがまた意外と避けられないんです。もちろん、極端な経験は大体レアですから、遭遇する確率は低い。ただし、それは常に起きる可能性があるんです。言ってしまえば、毎秒毎秒、くじを引いているようなもので、いくら当たりの出る確率が低いからってそんなバンバン引きまくってたらいつかは当たってしまうわけです。当然、長く生きれば生きるほど、くじを引く回数は増えていきますから、極端な経験をする確率が上がる。そして、極端な経験に遭遇して、感覚が狂わされる危険に見舞われるんです。
例えば、私はその昔、一身上の都合で心身がバテていました。まあ、一時期だけではあったんですが、その頃は世間で普通とされる生活を送るのがなかなか難しい状態でした。
何しろ、心身がバテきっていると、生活のリズムが普段と全然違うんです。まず、1日の大半が横になった状態なのは当たり前でございます。更に印象的だったのが、「よし、起きるか」と思ってから、実際に起き上がるまでに1時間かかるという点です。
もっと早く動けばいいのに、と自分でも思っているんです。でも、すぐに起き上がれない。1時間かけて心身を整えないと身体を起こせないんです。当然ながら、外へ出かける場合は、起き上がってから支度を開始しますから、出かける1時間半前には「そろそろ起きるか」と決心しておく必要がある。だから普通の生活を送るのが難しくなるわけですね。
最初は「自分はなんて怠け者なんだ」と思い、へこんだものでございますけれども、そのうち慣れてくるんです。とりあえず起き上がれるのは起き上がれるんで、あとはちゃんと出かける1時間半前から気持ちを整えておけばいい。結果として、心身がバテバテでもそれなりに用事はこなせていました。
今ではすぐに起きられる状態に戻りましたけれども、将来の怠け癖はなかなか抜けず、「今日は大したことができなかった」と思う日もしばしばございます。そんなへこみそうな時、私はあのバテきった日々を思い出すわけです。起きようと思い立ってから実際に起き上がるまで1時間を要した、あの頃でございます。そして、「あの時よりはマシか」と、ホッと胸を撫で下ろすわけです。自分はちゃんと頑張っているじゃないかと思い直せる。
しかし、どう考えても基準がおかしいんです。もちろん、世の中にはいろんな人がいますから、私以外にも起き上がるまで1時間は必要な人はいるでしょう。ただ、今や心身のバテから解放された私は、バテ基準で物事を考えていいものか、判断に迷っている次第です。
極端な経験は私の感覚にちゃんと影響を与えているようです。