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近道が分からないし、遠回りも分からない

 「急がば回れ」みたいな言葉は好きな人が多いせいか、チラホラ見かけるわけです。「近道には近道なだけのリスクがある」とか「遠回りをしたら結局は一番早かった」とか、とにかくいろんなパターンが存在する。「近道をしろ」みたいな主張があってもいいようなもんですが、「近道をしろ」で検索しても「遠回りした方が近道」みたいな「急がば回れ」派の意見が引っかかってくる。やっぱり、そっちのほうが好きな人は多いようです。

 私は昔から「全ての行動が遅い」と言われた人間でございまして、そういう人は確かに「急がば回れ」派の意見が心地よく聞こえるんです。遅くても大丈夫だよと言われてるような気になれるからです。

 ショートカットを繰り返す人を尻目に、淡々と自分のペースで進められれば、そのほうが楽なんです。「そうしたほうがショートカット人間よりも近道だよ」なんて言われれば、スローモーな人間はだいぶ救われる。実際、「急がば回れ」的な言葉を大切にしてきた時期もございます。

 しかし、「急がば回れ」を大切に抱えて生きてきたからこそ、徐々に疑問が生じてくるんです。

 例えば、分かれ道は世界中に存在しています。「急がば回れ」理論だと遠回りがいいとされる。じゃあ東京駅から新大阪駅を目指しましょうとなった時、東北新幹線に乗り込む猛者が何人いるかという話なんです。「急がば回れ」派だって東海道新幹線に乗り込むでしょう。新大阪行きの新幹線だってある中で、何が悲しくて青森経由で大阪を目指すのかという話です。つまり、いくら「急がば回れ」と言ったって、回るにも限度があるのではないか。

 そんな極端な回り道でなくても問題があります。分かれ道にはしばしば、どっちが近道でどっちが回り道か分からないタイプが出てくるんです。こちらとしては積極的に回っていきたい気分なのに、両方のルートを検討すればするほど訳が分からなくなる。現実の道でもこの有様ですから、比喩的な「道」だと更に大変です。例えば、ふたつの手段があったとして、どっちの手段が回り道なのか、全然分からないことが結構ある。

 そこで更に考えたんです。そして、気づいたんです。「急がば回れ」派の中には、「あの遠回りがあったから、今の自分はうまくいっている」みたいな主張をしてる人が割といらっしゃるんです。

 いつも順調な人なんていないでしょう。遠回りを強いられるどころか、足踏みせざるを得なかったり、場合によっては後退させられたり、とにかく思い通りにならないことがたくさんある。そんな経験から何かを学び、学んだこと実践してそれなりにうまくいくようになった。そんな風にして、うまくいかなかった過去を肯定的にとらえている人が、「急がば回れ」派にいらっしゃるように思えたんです。

 「近道をしろ」派は少なくとも検索した限りはなかなか出てこないですけれども、「遠回りはやっぱり遠回りだ」みたいなことをおっしゃっている方はお見かけしました。髭男爵の山田ルイ53世さんです。

 動画から該当箇所を引用いたします。具体的には6分33秒辺りからです。読みやすいよう、発言を一部変えているところもございますので、ご了承ください。

 僕が「不登校でした」とか「引きこもってました」っていう話を、とあるきっかけでしだしてから、結構その種の取材が増えたんですよ。僕は引きこもっていた期間のことを「本当に無駄やったな」って、もっときつい言葉でいうと「ドブに捨てたようなもんや」って常々言ってるんです。
 やっぱり僕的にはもっと友達と遊んだり勉強したり運動したりしたほうが良かったなって気持ちがあって、だから「無駄やったなって思います。まあ、僕に限っては」ってことで言うてるんですけど、8割9割のインタビュアーの方が「いやいや、でもその期間があったから、今の山田さんがあるんですよね」みたいな、「僕は本当にそれが糧になって今の山田さんがあると思うんですよ」って言うてくれるんですけど、いつしか社会は美談の着地しか咀嚼そしゃくできなくなってしまったのかっていうね。
 少なくとも本人が「無駄やった」って言うことは許容していいじゃないかと思うわけですよ。何でも「糧になった」「ためになった」「有意義だった」ってことに転換しないと、もうやってけねえんだと。この社会は。
 っていう風潮がすごく強いなって思うんです。

 こういう方もいらっしゃるんです。どちらが正しいかは分かりませんが、「あれは無駄だった」と振り返る。遠回りは遠回りだと言っているのと、形式としては近いものがあります。

 そう言えば、ネットではなかなか見つかりませんでしたけれども、知り合いに近道が好きな人がいます。ここでは遠野さんとしておきますけれども、遠野さんはとにかく「ショートカットをする」と言って聞きません。

 例えば正方形の公園の角にいたとして、正反対の角に行きたい場合、私は公園の外周道路に沿って「く」の字に歩いていくんですけれども、遠野さんは対角線上を真っ直ぐ通ります。公園に木が植わっててもお構いなしで、茂みをかき分けてズンズン進む。こんな感じで1秒でも早く目的地に着こうとするんです。道がほんの少しだけ目的地と逆の方向に折れているというだけで「あの道は遠回りになる。別の道を行く」とか平気で言う。そして実践する。

 一方で、遠野さんはエレベーターに乗りたがるんです。ご存じ通り、エレベーターはいつもすんなり来るわけではない。時には分単位の待機を強いられます。それでも遠野さんは1階上に行くのだって頑なにエレベーターを使う。

 私にとってはどう考えてもこの待ち時間が無駄なんです。実際、遠野さんに付き合っていると、階段やエスカレーターを使わず、頑なにエレベーターを利用したばかりに乗る電車が1本遅れたことだって1度や2度じゃない。こんな手段はどう考えても遠回りであり、ショートカットに命を懸ける遠野さんの行動とはとても思えない。でも、遠野さんは「自分はエレベーターの待機時間をショートカットで稼いでいる」と訳の分からないことを言うわけです。

 ただ、思ったんです。仮に遠野さんが私と同じように、ショートカットを全然使わず、エレベーターも一切使わないで移動していたら、ストレスを溜めこんでいつか身体を壊すと思うんです。過剰なストレスは寿命を縮めかねません。

 逆もまたそうなんでしょう。私がショートカットやエレベーターを強いられ続けると、それはそれでストレスを溜めこんで身体を壊す。長い人生を考えると遠野さんは遠野さんのルートが最も近道で、私は私のルートが最も近道なんです。いや、近いかどうかはともかく、正しい道ではある。

 つまり、同じ道でも人によっては正しい道となり、人によっては間違った道になるのでしょう。もっと言えば、同じ人が同じ道を通っても、時と場合によっては正しい道もなり、間違った道にもなる。つまり、近道にもなるし、遠回りにもなる。そんな道だってあるかもしれない。

 結局は人それぞれが好きに判断し、選んだ道を進んでいくしかないのでしょう。それでいい結果が出たり出なかったり、納得できたりできなかったりするでしょうけれども、人はそうするしかない。

 そんなわけで、今日も私は近道だか遠回りだか分からないまま歩んでいる次第です。

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