
日常でツッコミを使う場合の問題点
お笑い芸人が市民権を得て久しい昨今でございます。それゆえに、お笑い芸人の文化は日本社会に広く根付いてきました。
例えば、ボケとツッコミです。プロの芸人ほどのクオリティではないとしても、日常生活で冗談を言うなんてよくあることです。冗談に対してツッコミをする人も出てくる。
しかし、お笑いだって万能ではありません。うまくいく時があれば、まずい時だって出てくる。よく言われるのが、「信頼関係が成り立ってないと大変なことになる」です。互いに冗談を言い合える仲でないと、気まずい空気になるどころか、人間関係に取り返しのつかない亀裂を与えることもあります。
特にツッコミなんて、日常会話では「強めの注意」みたいなものです。そして、難しいことに、信頼関係が成り立っているかどうかなんて意外と分からないものです。「このくらい言ってもいいかな」と思って強めにツッコんだら、全然そんなことなくて大変な目に遭ったりする。
実は、日常生活におけるツッコミには別の問題もあるんです。例えば、「人のふんどしで相撲を取る」ということわざがあります。意味は「他人の物を利用して自分の役に立てる」でございます。
「こういうやついるよね」とか「あんまいい意味じゃないな」とか、皆さんいろいろと感想を抱いているかと存じます。私も私なりの感想を抱いていたんですが、ふと思ったんです。「相撲を取るなら、ふんどしじゃなくてまわしだろ」と。
そう思って検索してみたところ、ウィキペディアにこんなことがかいておりました。
廻し/回し(まわし、歴史的仮名遣:まはし)とは、競技や神事として行われる相撲で用いられる被服の一種。ふんどしの一種であることから、相撲褌ともいう。
つまり、まわしはふんどしだったわけで、ことわざは正しかったんです。さすがことわざでございます。
落語の寿限無でも似たような経験がございます。「寿限無」とは、落語でも有名な噺でございまして、子供に長い名前をつけてしまったばっかりに、いろいろと面倒な出来事に遭遇しまくるという内容でございます。
いろんな名前を見ていると、たまにビックリするくらい長い名前と出会います。場合によっては文字数を無理矢理伸ばした跡も見受けられます。寿限無を見ていると、長い名前で目立とうとする人や、長い名前の煽りを食らう人は昔からいたんだなあと感慨深くなります。
でも、思うわけです。「全部言う必要ないだろ」と。皆さんも名前をフルネームで言う場面はあまりないかと存じます。大体は名字だったり名前だけだったり、あだ名で呼ぶ場合もある。寿限無に出てくる人だって、毎回律儀に全部言う必要はないわけで、どこかを省略して言えば日常生活にほとんど支障はないでしょう。それこそピカソだって本名は長いですが、呼ばれる時は大体「ピカソ」とか「パブロ・ピカソ」くらいなもんです。
寿限無に出てくる子供だって、ラストの「長助」だけでいいでしょうし、何なら「寿限無」でもいいわけです。
そこで気づくんです。噺の題名がそもそも「寿限無」だと。フルネームを丸々題名に乗っけてはいない。もう題名で答えを出していたんです。「『寿限無』と呼べばよかったのに、そう呼ばなかったやつらのお話だよ、分かんだろ?」という作者の薄ら笑いが目に浮かぶようです。
このように、ツッコミは予測されることがあるんです。「そう言われると思ってたよ」と、半笑いで対策を取られていたりする。ツッコミ待ちされた側としては、そういう時、なんだか恥ずかしい。それがツッコミの持つ、もうひとつの問題点だと勝手に思っています。